Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.3.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その40

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 下 (11)
 改 訂 版


所謂耶蘇教















浴水及不動
心























センスマル
ハライソ

軍記の人物評は此位にして更に彼が伝へたる所謂耶蘇教に及ば う、宗教家で無くとも宗教を談ずる事は出来る、軍記の所業は 前文の如く宗教家にあるまじき行状とはいふものゝ、単にそれ のみを以て耶蘇教を伝ふる資格が無いとは言へぬ、併し彼が如 何にして耶蘇教を習得したかは全く不明である、其蔵品中に天 帝如来の画像及若干の禁制書類があつたことは確で、貢・きぬ・ 平蔵・桂蔵孰れも右画像を拝し、又少弐が持帰つた反古類は大 半渋紙張の材料に使用せられたが、其残部の中から禁制耶蘇目 録書にあ闢耶集の様なものがあつたとある、さて貢等の申口を 湊合して伝法の次第を考へると、第一の楷段は浴水及び不動心 の修行で、夜中深山幽谷を跋渉し、滝又は井水を浴び、生死を 恐れぬ胆気を養ふのが根本で、貢は之を修すること三十日強、 きぬは二年余、さのは七年余にて漸く伝法となつた、伝法の時 には、此法は天下厳禁の切支丹宗門天帝如来を念ずるものなる につき、万一事顕れて厳科に就くとも、決して師名並に伝来の 次第を白状してはならぬ、其身一人仕置になるは、栄花の上の 栄花と思ふべしとの申渡がある、此宣誓は余程堅いと見え、さ のが召捕になつたと聞けど、きぬは同人の自白せざるを信じ、                          ミソギ 猶嫌疑を避けんが為に、態と天満天神社の表門際に立ち未曾祇 の祓を唱へて銭を乞ひ、又彼等は町奉行所に於ては数々申口を 変更して掛与力を困らした、此種の誓約は秘密宗教に通有なる 点で、之が済むとセンスマルハライソの陀羅尼を教へ、二六時 中一心に之を無声に唱へよ、此陀羅尼は猶一向宗の南無阿弥陀 仏、日蓮宗の南無妙法蓮華経と同事なれど、一向宗日蓮宗にて 唱ふる名号は、過去未来の事のみの事にて、現在の福祥繁栄に 及ばず、之に反して天帝如来の陀羅尼を唱ふる時は、現在の繁 栄を受くべしと教へる、センスマルハライソとは如何なる意味 か、残念ながら不明であるが、天帝を念ずる時にかく唱へる者 と見て宜しく、之が伝法の骨髄で、其他は加持祈祷の法である、

 軍記の人物評はこれ位にして、更に彼が伝へた所謂耶蘇教に 及ばう。宗教家で無くとも宗教を談ずる事は出来る。軍記の所 業は前文の如く宗教家にあるまじき行状とはいふものの、単に それのみを以て耶蘇教を伝ふる資格が無いとは言へぬ。併し彼 が如何にして耶蘇教を習得したかは全く不明である。彼の所蔵 品中に天帝如来の画像及び若干の耶蘇教書類があつたことは確 で、貢・きぬ・平蔵・桂蔵孰れも右画像を拝し、また少弐が持 帰つた反古類は大半渋紙張の材料に使用せられたが、その残余 の中から禁制耶蘇目録書に相当するものが若干枚発見せられた とある。さて貢等の申口を湊合して伝法の次第を考へると、第 一の楷段は浴水及び不動心の修行で、夜中深山幽谷を跋渉し、 滝又は井水を浴び、生死を恐れぬ胆気を養ふのが根本で、貢は 之を修すること三十日強、きぬは二年余、さのは七年余で漸く 伝法となつた。伝法の時には、天下厳禁の切支丹宗門天帝如来 を念ずるものなるを以て、万一露顕して厳科に就くとも、決し て師名並びに伝来の次第を白状してはならぬ。その身一人仕置 になるは、栄花の上の栄花と思ふべしとの申渡がある。この宣 誓は余程堅いと見え、さのが召捕になつたと聞けど、きぬは同 人の自白せざるを信じ、尚嫌疑を避けんために、態と天満天神         ミソギハラヒ 社の表門際に立ち禊祓を唱へて銭を乞ひ、また彼等は町奉行所 において再三申口を変更して掛与力を困らした。かかる宣誓は 秘密宗教に通有な点で、之が済むとセンスマルハライソの陀羅 尼を教へ、二六時中一心に之を無声に唱へよ。この陀羅尼は猶 一向宗の南無阿弥陀仏、日蓮宗の南無妙法蓮華経と同事なれど、 一向宗日蓮宗で唱ふる名号は、過去未来の事のみにて、現在の 福祥繁栄に及ばず、之に反して天帝如来の陀羅尼を唱ふる時は、 現在の繁栄を受くべしと教へる。センスマルハライソとはゼス、 マリヤ、ハライソの訛で、耶蘇と聖母のマリヤと極楽とをいふ。 教徒の常に口にする所であるが、軍記がこの文句の意味を説明 したことは吟味書類に見えぬ。以上が伝法の骨髄で、次は加持 祈祷の法である。


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


「大塩平八郎」目次/ その39/その41

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