Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.3.29

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その41

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 下 (12)
 改 訂 版


病気平癒金
品吸集の祈
祷























天帝如来の
画像

病人が有れば紙にて人形を拵へ、裏へ病人の生命年月を記し、 板へ張付け、病根痛所の次第を聞糺し、其処を目当に幾本とな く大釘を打込み、病人平癒に至るまで日限の極なく、毎夜子の 刻より丑の刻まで一時の間、清水を鉢に汲み、右人形へ手にて 濺懸け、一心に天帝如来を念ずると、如来の威徳によつて病気 は恢復し、先方の者共より感謝の余多少によらず金銀を寄附す るやうになる、もし単に金銀を集めやうとするなら、人形計に て釘を打たず、之に対して前記の通り祈祷を凝せば、不思議に 金品が寄つて来る、人々より問合せて来る吉凶禍福などは一向 論も無く心中に浮び来る、併しながら昼夜の内一時一刻にても 天帝如来の恩徳を忘却しては相済まぬ、之を忘却すれば修治の 効験なきのみか、直に仏罸を蒙る、厳禁の切支丹宗門の事なれ ば、父母親族と雖も猥に口外せず、稲荷明神下に托して法を行 ひ、邪淫を禁じ、また絶えず浴水及び不動心の修行を為すべし と申渡され、最後に天帝如来の画像の胸と覚しき所に血を濺い で其教を奉ずるを誓ふのである、貢は右の中指を突いて血を濺 ぎ、きぬは「みつぎ差図の通指血を濺懸け」とあれば、之と同 様であつたらうが、平蔵は左指五本爪際より血を出し、桂蔵は 別紙に神文を認め血判をして画像を拝し、さのは終に全く之を 見なかつた。又之を拝するに貢桂蔵等は多少の金を出し、平蔵 は無料であつたのは、予め軍記に長崎遊歴の目算があつて其時 に妻子の世話を托する積りであつたらしい、画像は縦四尺横幅 壱尺計の古画にて、左手に小児右手に剣を持つた乱髪の女の立 姿であつたといふから多分は聖母マリヤの像で、小児はキリス トであらうが、剣を持つてゐるのは可笑しい、此の如きマリア の像があるか、未だ聞いたことがない、単に想像ではあるが剣 とあるのは或は十字架ではあるまいか、貢以下の口供中一言も 十字架に及ばぬのは合点が行かぬ、剣と十字架とを混同したの であらうとの想像が湧いて来る、併し此画像は現存せぬを以て 今更如何とも致方ない、貢の吟味書中に軍記の言葉として、元 来天帝は影形なきものなるを、南蛮国の工夫にて右体に拵へた とあるが、軍記所持の画像は当邪宗門一件に於ては本尊の如き                           フミエ もので、さのは之を拝し得なかつた為、態々長崎に赴き、踏絵 をして其像を知つた位である、軍記が貢に与へた三幅は、緋袴 を着してゐるお多福と鍾馗と菊慈童とで、平蔵に認遣した一幅 も、同じく緋袴を着けたお多福が豆を打つて鬼を追ふ図で、右     ウスメノミコト お多幅を宇須女命と号し、之を本尊として念ぜよ、宇須女のウ スは天帝即ちデウスのウスに通じ、鍾馗は剣、菊慈量は小児を           ウスヤマ 表すと告げ、軍記自身臼山山人と号するは、矢張天帝の一字の 縁を雛れざる為だと平蔵に語つて居る、

病人が有れば紙にて人形を拵へ、裏へ病人の生命年月を記し、 板へ張付け、病根痛所の次第を聞糺し、其処を目当に幾本とな く大釘を打込み、病人平癒に至るまで日数を定めず、毎夜子の 刻より丑の刻まで一時の間、清水を鉢に汲み、手にて右の人形 へ濺懸け、一心に天帝如来を念ぜば、如来の威徳によつて病気 は恢復し、先方の者共より感謝の余り多少によらず金銀を寄附 するやうになる。もし単に金銀を集めようとするなら、人形だ けにて釘を打たず、之に対して前記の通り祈祷を凝らせば、不 思議に金品が寄つて来る。人々より問合せて来る吉凶禍福など は一向論も無く心中に浮び来る。併しながら昼夜の内一時一刻 にても天帝如来の恩徳を忘却しては相済まぬ。之を忘却すれば 修治の効験なきのみか、直に仏罰を蒙るに至らう。厳禁の切支 丹宗門の事なれば、父母親族と雖も猥に口外せず、稲荷明神下 に託して法を行ひ、邪淫を禁じ、また絶えず浴水及び不動心の 修行を為すべしと申渡され、最後に天帝如来の画像の胸と覚し き所に血を濺いで奉教を誓ふのである。貢は右の中指を突いて 血を濺ぎ、きぬは「みつぎ差図の通指血を濺懸け」とあれば、 之と同様であつたらうが、平蔵は左指五本爪際より血を出し、 桂蔵は別紙に神文を認め血判をして画像を拝し、さのは終に之 を見なかつた。画像は縦四尺横幅一尺計の古画で、左手に小児、 右手に剣を持つた乱髪の女の立姿であつたといふから、多分は 聖母マリヤの像で、小児は耶蘇であらうが、剣を持つてゐるの は可笑しい。貢の吟味書中に軍記の言葉として、元来天帝は影 形なきものなるを、南蛮国の工夫にて右体に拵へたとあるが、 軍記所持の画像はいはば本尊の如きもので、さのは之を拝し得               フミエ なかつた為、態々長崎に赴き、踏絵をしてその像を知つた位で ある。軍記が貢に与へた三幅は、緋袴を着してゐるお多福と鍾 馗と菊慈童とで、平蔵に認遣した一幅は、同じく緋袴を着けた                      ウスメノミコト お多福が豆を打つて鬼を追ふ図で、右お多幅を宇須女命と号し、 之を本尊として念ぜよ、宇須女のウスは天帝即ちデウスのウス                           ウスヤマ に通じ、鍾馗は剣、菊慈量は小児を表すと告げ、軍記自身臼山 山人と号するは、矢張天帝の一字の縁を雛れざる為だと平蔵に 告げて居る。


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


「大塩平八郎」目次/ その40/その42

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