其行衛
|
軍記所持の画像の行衛に就いては町奉行所では其捜索に少から
ざる苦心を払つた、槌屋少弐法貴政助等軍記の葬式に立合つた
者共の口述によれば、当時軍記の手許に存在して居らざりしは
確かである、少弐が持帰つた軍記自筆の書類の中に、閑院宮家
暇の節諸道其は召上げられたが、平素は勿論旅中にも離さゞる
御影の一幅は、神具共無事に家主利右衛門より我手に戻り、夫
より暫時久兵衛方へ逗留、尋いで新太郎借家に引移りたる趣を
書記したものがある、御影の一幅とは定めし天帝の画像で、逃
亡の際何分携帯しかねて腹心の利右衛門に預け、新太郎借家へ
移転後取戻したのであらう、間も無く軍記夫婦困窮となり、大
切の品ながら質入致さうかといふ内談を、久兵衛の娘もとが聞
いたといふ、大切の品とは同じく画像の事であらう、併し是歳
七月より九月まで軍記は大阪に逗留し、高見屋平蔵に画幅を示
した所から推すと、もとが聞得た内談は全く内談に止まつたと
外思はれぬ、それから貢が軍記に右一幅の譲請を相談した時、
彼の画幅は其富豪へ大金にて譲渡した故真物は手許に無く、呉
々も残念である、借出して写を作らうか、大低費用は四五拾両
かゝるとの返答を聞き、模本ならば望まず、と貢が断つたのが
翌文政二年四月であるから、その間即ち僅に半歳計の間に、軍
記の手許を離れて仕舞つたのである、
|
■その行方
軍記所持の画像の行方に就いて、町奉行所では捜索に少から
ざる苦心を払つた。土屋少弐・法貴政助・寺田屋熊蔵等軍記の
葬式に立合つた者共の口述によれば、当時軍記の手許に存在し
て居なかつたは確かである。少弐が持帰つた軍記自筆の書類の
中に、閑院宮家暇の節諸道其は召上げられたが、平素は勿論旅
中にも離さざる御影の一幅は、神具共無事に家主利右衛門より
我が手に戻り、夫より暫時久兵衛方へ逗留、尋いで新太郎借家
に引移つた趣を認めたものがある。御影の一幅とは定めし天帝
の画像であらう。熊蔵の申口に、軍記が新太郎借家へ落着いた
後、逃亡の際久兵衛へ預けた荷物は勿論、利右衛門へ預けた少
々の品物まで残らず引取つたといひ、間も無く軍記夫婦困窮と
なり、大切の品ながら質入致さうかといふ内談を、久兵衛の娘
もとが聞いたといふ。大切の品とは同じく画像の事であらう。
併し同年七月から九月まで軍記は大阪に逗留し、高見屋平蔵に
画幅を示した所から推すと、もとが聞得た内談は全く内談に止
まつたと外思はれぬ。それから貢が軍記に右一幅の譲受を相談
した時、彼の画幅は其富豪へ大金にて譲渡した故、真物は手許
に無い、呉呉も残念である。借出して写を作つて遣らうか、大
低費用は四五拾両かかるとの返答を聞き、模本ならば望まず、
と貢が断つたのが翌文政二年四月であるから、その間即ち僅か
に半歳計の間に、軍記の手許を離れて仕舞つたのである。
|