Я[大塩の乱 資料館]Я
2005.4.3

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その42

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第一章 与力
  二 三大功績 下 (13)
 改 訂 版


其行衛  

軍記所持の画像の行衛に就いては町奉行所では其捜索に少から ざる苦心を払つた、槌屋少弐法貴政助等軍記の葬式に立合つた 者共の口述によれば、当時軍記の手許に存在して居らざりしは 確かである、少弐が持帰つた軍記自筆の書類の中に、閑院宮家 暇の節諸道其は召上げられたが、平素は勿論旅中にも離さゞる 御影の一幅は、神具共無事に家主利右衛門より我手に戻り、夫 より暫時久兵衛方へ逗留、尋いで新太郎借家に引移りたる趣を 書記したものがある、御影の一幅とは定めし天帝の画像で、逃 亡の際何分携帯しかねて腹心の利右衛門に預け、新太郎借家へ 移転後取戻したのであらう、間も無く軍記夫婦困窮となり、大 切の品ながら質入致さうかといふ内談を、久兵衛の娘もとが聞 いたといふ、大切の品とは同じく画像の事であらう、併し是歳 七月より九月まで軍記は大阪に逗留し、高見屋平蔵に画幅を示 した所から推すと、もとが聞得た内談は全く内談に止まつたと 外思はれぬ、それから貢が軍記に右一幅の譲請を相談した時、 彼の画幅は其富豪へ大金にて譲渡した故真物は手許に無く、呉 々も残念である、借出して写を作らうか、大低費用は四五拾両 かゝるとの返答を聞き、模本ならば望まず、と貢が断つたのが 翌文政二年四月であるから、その間即ち僅に半歳計の間に、軍 記の手許を離れて仕舞つたのである、

■その行方  軍記所持の画像の行方に就いて、町奉行所では捜索に少から ざる苦心を払つた。土屋少弐・法貴政助・寺田屋熊蔵等軍記の 葬式に立合つた者共の口述によれば、当時軍記の手許に存在し て居なかつたは確かである。少弐が持帰つた軍記自筆の書類の 中に、閑院宮家暇の節諸道其は召上げられたが、平素は勿論旅 中にも離さざる御影の一幅は、神具共無事に家主利右衛門より 我が手に戻り、夫より暫時久兵衛方へ逗留、尋いで新太郎借家 に引移つた趣を認めたものがある。御影の一幅とは定めし天帝 の画像であらう。熊蔵の申口に、軍記が新太郎借家へ落着いた 後、逃亡の際久兵衛へ預けた荷物は勿論、利右衛門へ預けた少 々の品物まで残らず引取つたといひ、間も無く軍記夫婦困窮と なり、大切の品ながら質入致さうかといふ内談を、久兵衛の娘 もとが聞いたといふ。大切の品とは同じく画像の事であらう。 併し同年七月から九月まで軍記は大阪に逗留し、高見屋平蔵に 画幅を示した所から推すと、もとが聞得た内談は全く内談に止 まつたと外思はれぬ。それから貢が軍記に右一幅の譲受を相談 した時、彼の画幅は其富豪へ大金にて譲渡した故、真物は手許 に無い、呉呉も残念である。借出して写を作つて遣らうか、大 低費用は四五拾両かかるとの返答を聞き、模本ならば望まず、 と貢が断つたのが翌文政二年四月であるから、その間即ち僅か に半歳計の間に、軍記の手許を離れて仕舞つたのである。


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末」その7


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