藤田顕蔵
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但し軍記とは何等の因縁なくして今回捕縛となつた藤田顕蔵は、
漢訳の耶蘇教書類を所持し、燃犀録稿と題して耶蘇教に関する
著述まであつたが、之とても教義を弘めたといふのではなく、
阿州山崎村から大阪へ出て、堂島新地一丁目医師藤田幸庵の婿
養子となり、医書儒書を読み、西洋医学執心の余、次第に書籍
を買集めて天文・地理・宗教に及んだのである、彼は御制禁耶
蘇書類三十八部といつて大阪表に布告せられた禁書中九部十五
冊・燃犀録稿一冊・踏絵写四枚の外に、尚「紛敷書類」九部十
二冊を蔵してゐたといへば、当時の国法にては到底免れ難き犯
罪者ではあるが、制禁書類といひ、紛敷書類といひ、必ずしも
耶蘇教関係の書類のみで無いことは留意せねばならぬ、桂蔵は
顕蔵の医友河内平岡の神官亡水走飛騨といふ者の処へ暫く厄介
になり、飛騨の使で顕蔵に面会し、彼が多く西洋の珍書を所持
するのみならず、燃犀録稿といふ著述まであることを知り、之
を白洲で喋舌つた為、顕蔵は縲紲の耻を受けたのである、
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軍記とは何等の因縁なくして今回捕縛となつたは藤田顕蔵で
ある。彼は漢訳の耶蘇教書類を所持し、燃犀録稿と題して耶蘇
教に聞する著述まであつたが、之とても教義を弘めたといふの
ではなく、阿州山崎村から大阪へ出て、堂島新地一丁目医師藤
田幸庵の婿養子となり、医書儒書を読み、西洋医学執心の余り、
次第に書籍を買集めて天文、地理、宗教に及んだのである。彼
は大阪表で布告せられた御制禁耶蘇書類三十八部中九部十五冊・
燃犀録稿一冊・踏絵写四枚の外に、尚「紛敷書類」九部十二冊
を蔵してゐたといへば、当時の国法にては到底免れ難き犯罪者
ではあるが、制禁書類といひ、紛敷書類といひ、質は必ずしも
耶蘇教関係の書類のみで無いことに注意すべきである。前記伊
良子屋桂蔵が河内平岡の神官亡水走飛騨の処で暫く厄介になつ
てゐる中、飛騨の使として顕蔵に面会し、彼が夥しく珍書を貯
へ、耶蘇教書類を所持するのみならず、燃犀録稿といふ著述ま
であることを知り、之を白洲で喋舌つたため、顕蔵は縲紲の恥
を受けたのである。
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