致良知
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中斎の所謂太は仏家枯寂の空と違ひ、消極的で無くて積極的で
ある、「夫れ太は一霊明のみ、是霊明は即ち昼夜に通じ、古今
に亘りて滅せざるの明なり」とあつて、決して心的作用の停止を
太虚と言ふのでは無い、中斎の説に従へば、良知とは各自の方寸
の中に宿つて居る天地の徳を指し、各人生れながら之を備へ、唯
邪念あるが為に明らかならぬことがある、真の良知は乃ち太虚の
霊にして、天を生じ、地を生じ、仁を生じ、義を生じ、礼智を生
じ、啻に道徳の淵源たるのみでなく、天地万物を生ずるものとし
て居る、然らば太虚とは心境の無垢にして清澄なる状態をいひ、
良知とはその中善悪を識別せる自然の霊明を指し、太虚と良知と
は畢竟同物にして異名、帰太虚を説くは取も直さず致良知を説く
のである、彼は知覚・聞見・情識・意見の四知を以て良知を致す
に甚だ害ありとし、学者たる者四知の邪障を掃つて宜しく此一知
を明にしなくてはならぬ、聖人は先天の天理即ち良知を全うする
が故に聖人である、「良知は武王の所謂人は万物の霊なりの霊に
して、知覚・聞見・情識・意見の知識に非ざるなり。故に若し能
く後天の形気を忘れ、真に志を立てなば、即ち先天の霊心にあり
て照照明明、未だ嘗て泯びざるなり、黙して之を識る可なり、而
して真に其良知を致さば、即ち四書六経の言言語語皆其用を為す
や断じて疑なし、可もなく不可もなく、適もなく、莫もなく、惟
義是従ふの妙用神通自然に手に入る」、と郡山藩士藤川晴貞に与
へた書中に見える。
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中斎の所謂太は仏家枯寂の空と違ひ、消極的で無くて積極的
コノ
である。「夫れ太は一霊明のみ、是霊明は即ち昼夜に通じ、古
今に亙りて滅せざるの明なり」とあつて、決して心的作用の停止
を太虚と言ふのでは無い。彼の説に従へば、良知とは各自の方寸
の中に宿つて居る天地の徳を指し、各人生れながら之を備へ、唯
邪念あるが為に明らかならぬことがあるのみである。真の良知は
乃ち太虚の霊にして、天を生じ、地を生じ、仁を生じ、義を生じ、
礼智を生じ、啻に道徳の淵源たるのみでなく、天地万物を生ずる
ものとして居る。然らば太虚とは心境の無垢にして清澄なる状態
をいひ、良知とはその中善悪を識別せる自然の霊明を指し、太虚
と良知とは畢竟同物にして異名、帰太虚を説くは取も直さず致良
知を説くのである。彼は知覚・聞見・情識・意見の四知を以て良
知を致すに甚だ害ありとし、学者たる者四知の邪障を掃つて宜し
くこの一知を明らかにしなくてはならぬ、聖人は先天の天理即ち
良知を全うするが故に聖人である。「良知は武王の所謂人は万物
の霊なりの霊にして、知覚・聞見・情識・意見の知識に非ざるな
り。故に若し能く後天の形気を忘れ、真に志を立てなば、則ち先
天の霊心にありて照照明明、未だ嘗て泯びず。黙して之を識る可
きなり。而して真にその良知を致さば、即ち四書六経の言言語語
皆その用を為すや断じて疑なし、可もなく、不可もなく、適もな
く、莫もなく、惟義是従ふの妙用神通自然に手に入る」と郡山藩
士藤川晴貞に与へた書中に見える。
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