代官根本善
左衛門風聞
書
代官江川太
郎左衛門届
書
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勿論一場の談話で年月さへも明白で無いが、代官根本善左衛門の
風聞書と対照すると、何様も事実らしく思はれる、風聞書には林
家の無尽に白井孝右衛門は五百両、木村司馬之助は三百両をかけ、
出金の節林家々来の表印大学頭の裏印ある証文を平八郎より渡し、
一両年は割戻しがあつたが、其後右証文を平八郎の許へ引上げ、
更に橋本忠兵衛名印の証文と取替へたとある、天保八年三月即ち
ツカハラ
大塩乱の翌月豆州韮山の代官江川太郎左衛門から、同国塚原新田
地内一里塚り傍の林の中に、大加賀守殿大久保加賀守忠真脇中務
少輔殿脇坂中務大輔安董家来中大塩平八郎と認めてある白木の箱
を打壊しあり、附近には平八郎から御老中宛・林大学頭宛の書状、
其他の書類が雨露に濡れて散乱してをつたといふ届書があつて、
其目録
覚
一、諸書物目録 一 通
一、水戸殿御用人宛大塩平八郎 一 封
右は雨露に封口放れ有之
一 御老中方宛右同人 一 封
一、 右同
一、書状類 拾壱通
一、証文並書付類 廿八通三冊
一、諸書物帳面類 九 冊
一、掛物 一 幅
右は荷物切解逃去候無宿清蔵差押、取上候分、
を読むと、文中の証文帳面類の文字は頗る注意を牽く、或は平八
郎が挙兵に際し、林家御用金に関する一切の書類を取纏めて返送
したのでは無からうか、甲子夜話三篇によると、閣老宛の書状は
自筆で用金の収支と自己の陳情とであつたとあるが、水戸殿用人
宛のものは何であつたか一言もそれに及んで居らぬ。
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