Я[大塩の乱 資料館]Я
2006.3.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その88

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第二章 学者
  五 先輩交友 (14)
 改 訂 版


浅井中倫 






















大西与五郎









宮脇志摩

 浅井中倫 前記一斎以下山陽に至る十三家の詩文の外、附録 抄に浅井中倫の尺牘がある。中倫は通称を太一郎といつて後素 「外舅」に当り、身分は「本府の騎吏にして致仕す」とあれば 与力の隠居である。天保八年の大阪袖鑑西組与力中に浅井岩之 丞とあるのは、恐らくは当主の浅井氏で、太一郎はこの家の隠 居であらう。中斎には妾はあつたが妻は無い。外舅の二字を妻 の父とすれぱ甚だ解釈に苦しむが、母の昆弟を舅と為すとの註 解もあるし、又中倫の文中に「独り吾子の考妣をしてその成立 を視せしめざるを恨み、且つ吾輩徒に草木と共に朽ち、老死を 以て分と為すを耻づるのみ。」とある所から推すと、中斎の母 親の兄弟では無いかと思はれる。尚伝手ながら平八郎の親類を 数へると、  大西与五郎 東組与力。裁許書によると、平八郎は此者甥と あるのみで、平八郎からいへば、叔父であるか伯父であるか分 明せぬが、白井孝右衛門の申口には「伯父」とあるし又前記浅 井太一郎は与五郎厄介の兄と裁許書にあるから、両名とも平八 郎実母の兄である、与五郎は大塩乱の時町奉行跡部山城守から 特別の使命を蒙つたが、卑怯の振舞ありし為、其後遠島に処せ られた。  宮脇志摩 中斎の実父平八郎敬高の弟で、文政六年摂州島下 郡吹田村氏神の神主宮脇日向の養子となり、大塩乱には徒党の 中に加り、事敗れて自殺した、

      大塩君子起、索吾旧著外史、答以其佩刀、   名刀工所造、陋撰不足以当之、慚悚之余、   賦此奉謝、              頼 山 陽 吾書三千余万字、博得君家両尺鉄、廉明佩所可辟妖、 服之護身長不失、君刀疑経斬姦邪、魚腸紋雑血痕、 吾書字字頗類此、此是千古英雄血、血有新陳用意同、 素心相照両如雪、如新発付吾蔵、観及未覆債君閲、 君観吾心吾佩君心、百歳不蠧又不折、   訪大塩君、謝客而上衙、作此贈之                    同 上衙治盗賊、帰家督生徒、獰卒候門取裁决、 左塾猶聞喧唔、家中不納鬻獄銭、唯有万巻書、 自恨不暇仔細読、五更已起理案牘、知君学推王文成、 方寸良知自昭霊、八面応鼓有余勇、号君当呼小陽明、 吾来侵晨及未出、交談未半戒鞭撻、留我恣抽満架帙、 坐聞蝉声在簷、巧労拙逸不足異、但恐折傷利器、 祈君善刀時蔵之、留詩在壁君且視、

 浅井中倫 前記一斎以下山陽に至る十三家の詩文の外、附録 抄に浅井中倫の尺牘がある。中倫は通称を太一郎といつて後素 「外舅」に当り、身分は「本府の騎吏にして致仕す」とあれば 与力の隠居である。天保八年の大阪袖鑑西組与力中に浅井岩之 丞とあるのは、恐らくは当主の浅井氏で、太一郎はこの家の隠 居であらう。中斎には妾はあつたが妻は無い。外舅の二字を妻 の父とすれぱ甚だ解釈に苦しむが、母の昆弟を舅と為すとの註 解もあるし、又中倫の文中に「独り吾子の考妣をしてその成立 を視せしめざるを恨み、且つ吾輩徒に草木と共に朽ち、老死を 以て分と為すを耻づるのみ。」とある所から推すと、中斎の母 親の兄弟では無いかと思はれる。尚伝手ながら平八郎の親類を 数へると、  大西与五郎 東組与力。裁許書によると、平八郎はこの者甥 とあるのみで、平八郎からいへば、叔父であるか伯父であるか 分明せぬが、白井孝右衛門の申口には「伯父」とあるし又前記 浅井太一郎は与五郎厄介の兄と裁許書にあるから、両名とも平 八郎実母の兄である。与五郎は大塩乱の時町奉行跡部山城守か ら特別の使命を蒙つたが、卑怯の振舞があつた為後に遠島に処 せられた。  宮脇志摩 通称権九郎、中斎の実父平八郎敬高の弟で、文政 六年摂州島下郡吹田村氏神の神主宮脇日向の養子となり、大塩 乱には徒党の中に加はり、事敗れて自殺した。享年未詳だが敬 高とは大分年が違ふやうだから或は異母弟かも知れぬ。


『洗心洞箚記』 (抄)」その40
石崎東国『大塩平八郎 伝』 その38


「大塩平八郎」目次2/ その87/その89

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