浅井中倫
大西与五郎
宮脇志摩
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浅井中倫 前記一斎以下山陽に至る十三家の詩文の外、附録
抄に浅井中倫の尺牘がある。中倫は通称を太一郎といつて後素
「外舅」に当り、身分は「本府の騎吏にして致仕す」とあれば
与力の隠居である。天保八年の大阪袖鑑西組与力中に浅井岩之
丞とあるのは、恐らくは当主の浅井氏で、太一郎はこの家の隠
居であらう。中斎には妾はあつたが妻は無い。外舅の二字を妻
の父とすれぱ甚だ解釈に苦しむが、母の昆弟を舅と為すとの註
解もあるし、又中倫の文中に「独り吾子の考妣をしてその成立
を視せしめざるを恨み、且つ吾輩徒に草木と共に朽ち、老死を
以て分と為すを耻づるのみ。」とある所から推すと、中斎の母
親の兄弟では無いかと思はれる。尚伝手ながら平八郎の親類を
数へると、
大西与五郎 東組与力。裁許書によると、平八郎は此者甥と
あるのみで、平八郎からいへば、叔父であるか伯父であるか分
明せぬが、白井孝右衛門の申口には「伯父」とあるし又前記浅
井太一郎は与五郎厄介の兄と裁許書にあるから、両名とも平八
郎実母の兄である、与五郎は大塩乱の時町奉行跡部山城守から
特別の使命を蒙つたが、卑怯の振舞ありし為、其後遠島に処せ
られた。
宮脇志摩 中斎の実父平八郎敬高の弟で、文政六年摂州島下
郡吹田村氏神の神主宮脇日向の養子となり、大塩乱には徒党の
中に加り、事敗れて自殺した、
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浅井中倫 前記一斎以下山陽に至る十三家の詩文の外、附録
抄に浅井中倫の尺牘がある。中倫は通称を太一郎といつて後素
「外舅」に当り、身分は「本府の騎吏にして致仕す」とあれば
与力の隠居である。天保八年の大阪袖鑑西組与力中に浅井岩之
丞とあるのは、恐らくは当主の浅井氏で、太一郎はこの家の隠
居であらう。中斎には妾はあつたが妻は無い。外舅の二字を妻
の父とすれぱ甚だ解釈に苦しむが、母の昆弟を舅と為すとの註
解もあるし、又中倫の文中に「独り吾子の考妣をしてその成立
を視せしめざるを恨み、且つ吾輩徒に草木と共に朽ち、老死を
以て分と為すを耻づるのみ。」とある所から推すと、中斎の母
親の兄弟では無いかと思はれる。尚伝手ながら平八郎の親類を
数へると、
大西与五郎 東組与力。裁許書によると、平八郎はこの者甥
とあるのみで、平八郎からいへば、叔父であるか伯父であるか
分明せぬが、白井孝右衛門の申口には「伯父」とあるし又前記
浅井太一郎は与五郎厄介の兄と裁許書にあるから、両名とも平
八郎実母の兄である。与五郎は大塩乱の時町奉行跡部山城守か
ら特別の使命を蒙つたが、卑怯の振舞があつた為後に遠島に処
せられた。
宮脇志摩 通称権九郎、中斎の実父平八郎敬高の弟で、文政
六年摂州島下郡吹田村氏神の神主宮脇日向の養子となり、大塩
乱には徒党の中に加はり、事敗れて自殺した。享年未詳だが敬
高とは大分年が違ふやうだから或は異母弟かも知れぬ。
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