Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その10

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  一 江 戸 (8)
管理人註

寺社門前地 及び境内 代地 町数 武家屋敷 明治二年の 武家地・寺 社地・町地

 それから享保四年(一七一九)に本所深川を町奉行支配とし、 延享二年(一七四五)閏十二月に至り、更に寺社の門前境内を悉 く町奉行の支配とした。寺社の門前境内はもと寺社奉行の支配で ある。寺社の手を経て寺社奉行の許可を得れば家屋を建設するこ とが出来る。さうして兎角風俗を紊すやうな場合が多かつたので、 曩に町続きの代官領を町奉行支配としたやうに、今度は是等の寺 社門前及び境内を町奉行支配としたのである。門前地四百四十ケ 所、境内二百二十七ケ所といふから、江戸の幅員は随分増加した ものと言はねばならぬ。されど必ずしも市街は連続してゐると限 らず、門前町家のある所を飛々に支配したのである。  正徳延享両度の編成替によつて、即ち十八世紀の前年において、 江戸の姿は大体定まつたといへる。然しその前後に小変動は幾回 となく行はれ、その都度公収せられた土地に対し、代償として与          ダイチ へられた土地を何々代地といひ、これが元地と飛放れてゐる例が 多い。そんな始末で、正徳以後町数は著しく増加し、延享前後に は千六百七十八町となつたが、今いふ通り町々が連続してゐるの ではないから、江戸の境域を明白にいふことは不可能であり、従 つて何時も絵図に記入されなかつたのであらう。  江戸絵図を見て直ちに目につくのは、武家屋敷の多いことであ る。大名と名がつけば、どんな大名も一屋敷といふことは無い。 大きな大名となると屋敷三ケ所・四ケ所・五ケ所を有するものさ へあつた。それで大名屋敷は合計約六百に上り、尚この上に幾千 といふ旗本屋敷があつたのである。総じて武家屋敷は石高によつ て大体坪数がきまつてゐる。時代によりまた場合により、勿論例 外もあつたが、先づ千石以下で五百坪、千石以上二千石以下七百 坪、一万石以上二万石以下二千五百坪、十万石以上十五万石以下 七千坪といふやうな規定であつた。  明治二年九月の調査によると左の如くである。   武家地 一一、六九二、〇〇〇坪   寺社地  二、六六一、〇〇〇坪   町 地  二、六九六、〇〇〇坪 これで見ると武家地は総面積の約六割を占め、寺社地町地は各々 二割を占むるに過ぎない。江戸は流石に幕府の所在地として武家 の都であつた。これが都市として江戸の特色である。



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