Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その9

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  一 江 戸 (7)
管理人註

本所深川 江戸の境域 寛文の江戸 絵図 町並地

            *1  従来の江戸はすべて大川以東に発展したのであつたが、今度始     *2 めて大川以西に及んだ。即ち両国橋は万治二年(一六五九)を以                  ワリゲスイ て架けられ、同時に竪川・横川・南北割下水が設けられて、此処 にも武家屋敷が出来た。但し本所は屡々水害があるので一時廃止 せられたが、元禄以後また再興せられた。深川の開けたのは本所 より更に新しい。かくて江戸は武蔵の豊島荏原両郡の外、更に下 総の葛飾郡にも発展するに至つた。  然らば江戸の境域はどうかといふと遺憾ながら明白でない。大 火後六年目の寛文二年(一六六二)の調査に、江戸町奉行の支配 は南は高輪まで、北は坂本まで、東は今戸橋までとあつて、西に ついては一言もいつてない。新板江戸大絵図一枚及び新板江戸外 絵図四枚を以て一組とする地図は、六尺五寸の一間を一分とする 縮尺を用ひ、寛文十年から十三年にかけて出版せられてゐる。凡 そ徳川時代の給図としては一番正確で、さうして一番優等な地図 であるに拘はらず、江戸の境域を記して無い。爾後の地図に一と して江戸の境域を記したものなく、また文書の上からいつても議 論が一定してゐない。  正徳三年(一七一三)深川・本所・浅草・小石川・牛込・市ケ 谷・四谷・赤坂・麻布辺で代官所支配で町と名の附いた分を町奉 行支配に属せしめた。これによつて新に町奉行支配に帰した町数 二百五十九町、それに在来の町数六百七十四町を加へて合計九百 三十三町といふ統計があります。この六百七十四町を新規の町々 に対して古町と称することもありますが、その中から慶長の古町 三百余町を差引いた残りの古町は、慶長の古町のやうな特権は持 つてゐません。それから正徳三年に新に町奉行支配に移つた二百      マチナミチ 五十九町を町並地といふ。所謂古町に準ずる土地といふ意味です。 町並地は町在両支配で、土地は従前の如く代官が支配し、同人の 手で地子(地租)を徴収するけれども、人別は町奉行が支配する。 元来代官は身分の低い位置で、地子徴収が精一杯である。行政や 警察まで手が廻りかねる。それに町奉行は町奉行、代官は代官と、 銘々独立的に職分を守り、支配違には手を入れぬ規定ですから、 町奉行の方で厳しく取締ると、悪漢等は町続きの代官支配へ逃出 し、在方が厳しければ町方へ逃出すといふ訳で始末に行かなかつ た。この取締を完全にするために正徳三年令が出たのでせう。



*1 *2
「以西」「以東」
が正しいと思わ
れる。
『幸田成友著作
集 2』では訂
正されている。


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