Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その11

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  一 江 戸 (9)
管理人註

人口

 或る時代の江戸の人口は色々な書物に出てゐる。近頃柚木堀江 両氏が経済史研究第七号に発表せられた人口表は最も広くそれら の記事を編修したものであるが、肝要の材料批判が闕けてゐる。 例へば享保九年四月四十六万四千余人・同年七月五十三万七千余 人・同年九月四十六万九千余人とある。僅々二三ケ月の間に七万 人の増減があつたとは到底信用せられぬ。かやうに数字の相違す るは、計算の基礎に相違があるのであらうと考へて、それを研究 して行くのが学者の本分で、たゞ漫然並べて行くだけでは一向役 に立たぬ。いふまでもなく江戸の人口といふのは町奉行支配の人 口で、武家は入つて居ない。前記享保九年の三つの数字について 見るに、第一と第三とは町奉行大岡越前守からの届書で、「町方 支配人惣人数高、但地借・店借・召仕等迄の員数」と明白に説明 されてゐるから、これは充分信用するに足るものである。然るに 第二の数字は勝伯の吹塵録に掲載せられてゐるが、生憎根拠が分 らぬのみならず、柚木堀江両氏はこれと全く同じ数字を享保十年 九月の人口として再記してゐる。そんなことのあるべき筈はない。 して見れば第二の数字は信用するに足らぬ数字で、さうと気が付 けば、これは削るのが至当です。それから延享以後は寺社門前地 の人口が加はつてゐますから、町奉行の届書には必ず町方支配場 町人惣人数何程・寺社門前町々惣人数何程と二口に分けて人数を 挙げてありますが、天保十四年(一八四三)に至り更に出稼人の 一項が設けらるることとなりました。この三口を合計し、一番多 い時が天保十四年七月の五十八万七千で、六十万代に達しません。  かやうに町奉行支配の人数は分つても、武家の人数が判然しま せんから、江戸の惣人口は結局分らない。分らないから色々の説 が出て、中には七八十万といふ人もあるし、二百万といふ人もあ る。私だけの考を申すと、明治五年の戸籍表に士族百二十八万二 千余人卒族四十九万二千人とある。これは戸主家族を合した数で、 両方合して二百万人に足りない。勿論徳川時代の武家が明治の士 族卒族と全部同じとはいはないが、大部分は同一体で、さうして その一部分が江戸にゐた訳である。幕府の禄を食む旗本御家人は 家族と共に江戸にゐるが、大名屋敷にゐる武士の大多数は勤番武                       ヂヤウフ 士といひ単身である、妻子は故郷に残してある。定府といつて始 終江戸邸に詰めてゐる藩士は妻子を具してゐるが、これは極めて 少数だ。旗本御家人及びその家族と在江戸諸藩士とを合して百万 などといふことは決してない。私は五十万をも出なかつたと思ふ。 これに町人を加へて百万を出るか出ない位でせう。ロンドンは千 八百三十一年百四十七万一千人、パリーは千八百五十一年百五万 三千人といふ。江戸が二百万人などといふのは余りに買被つた説 といはねばならぬ。


  


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