Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その12

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  二 大 阪 (1)
管理人註

秀吉時代の 大阪城 東横堀川 西横堀川 道頓堀川 天満堀川

   二 大 阪  秀吉時代の大阪城は本丸・二ノ丸・三ノ丸とあつて、今日の大 阪城よりは余程広いものであつた。今日の大阪城は昔時の本丸・ 二ノ丸だけであるといつて宜しいのである。当時の三ノ丸は二ノ 丸の外を囲んで、東は大和川、北は大川を境とし、西は東横堀川、   カラボリ 南は空堀を以て限りとしてゐた。今空堀通一丁目・二丁目・三丁 目及び空堀町といふ町名が残つてゐる。この方面は城としては防 禦が手薄いから、慶長十九年の役には、真田幸村が態々空堀の外 面に真田丸を築いて関東の寄手を防いだ位である。  東横堀といふ名は古くは見えない。この川は何時頃出来たか、 その年号は判然しないが、慶長五年(一六〇〇)三月公卿の西ノ 洞院時慶が大阪城に秀頼を見舞つた時の日記に、大阪新堀堀づめ へ着船とある。堀は既に出来て居たが、未だ特別な名称がなく、 たゞ新堀と称へたのであらう。この東横堀にかゝつてゐる高麗橋 の擬宝珠が近年発見されたが、それには慶長九年八月といふ年月 がある。慶長の前半に立派にこの川や橋があつた証拠になる。こ れを東横堀といふのは、これと相対する西横堀が開鑿せられた後 に附けられたものであらうから、西横堀も慶長年間に出来たもの               センバ と思はれる。東西両横堀の間が船場で、西横堀以西を下船場とい ひ、下船場には阿波座・土佐座などといふ地名がある。阿波座は 阿波の国、土佐座は土佐の国の商人が海路大阪にやつて来て群居 せるに起原したものであらう。東西両横堀を連絡して木津川へ通 ずるのが名高い道頓堀で、播州久宝寺の豪家安井道頓が掘つたも のである。慶長十七年から着手して元和元年に落成した。一名南 堀といふのは、北掘即ち堂島川に対する名である。道頓は元和元 年の夏陣に大阪方に味方して討死したが、弟の安井九兵衛の家は 連綿相続して今日に及んでゐる。天満にある天満堀川が出来たの は慶長三年といひます。慶長三年は秀吉薨去の年で、その頃もう 天満に若干の民家があったものと推測せられる。新規に川を掘る といふことは土地の発展と無関係に生ずる現象では決してありま せんから。



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