Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その13

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  二 大 阪 (2)
管理人註

京町堀川 江戸堀川 江戸堀川の 銀札 阿波堀川 立売堀川

                       バクラウ  大阪冬陣の記録を読むと、大阪方では海に面した博労ケ淵を水                      シンケ 上防禦の中心とし、一方は穢多ケ崎に、他方は新家に支砦を設け              エ  コ たとあります。博労ケ淵は狗ノ子島の先とあれば、今の江ノ子島 の向ふに当らう。穢多ケ崎は、多分道頓堀川の海に注ぐ口の南側 を指すのでせう。これは木津川口を固むるためであり、また、新 家は野田村の先にあつて、これは伝法川を扼守するためです。関 東方では穢多ケ崎と新家とを同日に攻落し、つゞいて博労ケ淵を 陥れて、土佐座・阿波座に乱入し、更に進んで船場に入つた。さ うしてこの勝利は地理に熟した蜂須賀隊の力による所が多かつた                        ホンマチバシ ので、大阪方は頗るこれを憤慨し、戦争の終る頃、本町橋筋に陣 取つてゐる蜂須賀隊に向つて夜襲を試みてゐます。  夏、冬両度の戦で大阪の町々は滅茶苦茶に破壊せられ、町民は 八方に離散した。落城後、同地に封ぜられた家康の外孫松平下総 守忠明の仕事は、第一に市街の復興であつた。忠明は離散した町 人の還住を奨励するのみならず、大阪城の三ノ丸の地を市街地と し、そこへ伏見の町人を招いた。合計八十余町の伏見町人は相前 後して移住して来たが、中にも伏見京町の町人は下船場に移つた。 京町堀一名伏見堀は彼等が元和三年(一六一七)に開鑿したもの だといはれてゐる。但し伏見側の史料には伏見町人の大阪移転を 伏見廃城後の元和七年にかけてゐます。  京町堀の北に江戸堀がある。これは下船場の堀川の中で一番北 にあつて、矢張り元和三年の開鑿と称する。この開鑿の際銀札の 発行せられたことは経済史上特に注意に値する一大事実である。 抑々日本において最も古く紙幣に関する記事の見えるのは建武元 年(一三三四)ですが、その節実際発行せられたかどうかは甚だ 疑はしく、実物は一枚も残つて居ません。江戸堀川の銀札は縦五 寸九分、横一寸七分、表面に銀額を墨書し、上部に布袋の図を刻 し、その両肩に銀札の二字があり、裏面に「摂州大坂江戸堀川銀 札、万民用之、永代重宝也」と刻し、下方に桔梗屋伍郎右衛門 紀ノ国屋藤左衛門の署名印章がある。二名は恐らくは運河の開鑿 者か、若しくは金方であつたらう。この銀札について何等の記録 も発見せられないのは遺憾千万ですが、私は実物を故浜和助氏の 所蔵品中に見た。近年某氏がそれを借用し、まだ返済しない中に 死亡してしまつたので行衛不明ださうですが、惜しいことです。  京町堀の南に阿波堀川がある。これは慶長五年に堀られた。古 くは阿波座堀川といつたのを、後に座の字を省いたのである。         ヰタチ  その南にある立売堀は元和六年(一六二〇)に掘始められ、一                            シシクヒ 旦中止せられたが、寛永三年(一六二六)に出来たといふ。宍喰 屋次郎右衛門なる町人が完成したので、これに架けた橋の一つに 宍喰屋橋といふ名が記念として今も残つてゐる。  更にその南にあつて、木津川・西横堀・東横堀を連絡する長堀 川は寛永二年(一六二五)に出来てゐる。要するに元和の落城よ り寛永の初に至る十数年の間に、新大阪の市街の形は大体出来上 つたといへよう。

 


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