Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その14

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  二 大 阪 (3)
管理人註

伏見 石高

伏見は関ケ原役後完全に徳川氏の手に帰した。豊臣氏が大阪にゐ る問、伏見は徳川氏にとつて兵事上大切のものであつたが、豊臣 氏が滅んでしまへば、もう以前程の必要はない。幕府は伏見町人 の大阪への移住を認め、元和五年(一六一九)七月松平忠明を大 和郡山に移し、大阪城を幕府の直轄領となすに及び、伏見城を廃 し、その番衆を大阪に移した。大阪最初の城代内藤紀伊守信正は 伏見城番より栄転した者である。  大阪の古い絵図は色々あるが、いづれも後世から作つたもので、 一向信用するに足らぬ。豊臣時代の大阪図すら正確なものを見た ことがない。従つて絵図によつて豊臣時代の大阪の広袤を知る訳 には行かないが、寛永時代の記録に「古町五千石」といふ言葉が 散見し、さうしてその古町に対する新町は松平下総守及びその以 後に出来た町々を指してゐる。然らば古町は豊臣時代より存在し た町々で、その石高は五千石といふことになります。然らば新町 の石高は如何といふと、寛永十一年(一六三四)の調査に六千百 八十三石三斗九升八合一勺五才と端数まで示した数字がある。こ の新古両町を三郷に分けて見ると、豊臣時代から徳川時代にかけ て北組の石高が一番多く、南組がこれにつぐが、徳川時代に於け る石高増加は南組最も著しく、天満組は常に他の二組より遅れて ゐた。固より石高の多少を以て、直に面積の広狭人口の多寡を論 ずることは出来ないけれども、大体においてはそれらを考慮する 標準とはなるでせう。要するに大阪は元和落城以後約二十年間に 豊臣時代の二倍に達した。目覚ましい進歩といはねばなりません。
          
古 町   五、〇〇〇.〇〇〇
           
新 町   六、一八三.三九八一五
北 組

南 組

天満組

二、八七六.七五七

一、四〇七.一七八

七一六.〇六四

二、四〇一.六二九一五

三、四五九.四七七  

三二二.二九二  

   ★


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