伏見は関ケ原役後完全に徳川氏の手に帰した。豊臣氏が大阪にゐ
る問、伏見は徳川氏にとつて兵事上大切のものであつたが、豊臣
氏が滅んでしまへば、もう以前程の必要はない。幕府は伏見町人
の大阪への移住を認め、元和五年(一六一九)七月松平忠明を大
和郡山に移し、大阪城を幕府の直轄領となすに及び、伏見城を廃
し、その番衆を大阪に移した。大阪最初の城代内藤紀伊守信正は
伏見城番より栄転した者である。
大阪の古い絵図は色々あるが、いづれも後世から作つたもので、
一向信用するに足らぬ。豊臣時代の大阪図すら正確なものを見た
ことがない。従つて絵図によつて豊臣時代の大阪の広袤を知る訳
には行かないが、寛永時代の記録に「古町五千石」といふ言葉が
散見し、さうしてその古町に対する新町は松平下総守及びその以
後に出来た町々を指してゐる。然らば古町は豊臣時代より存在し
た町々で、その石高は五千石といふことになります。然らば新町
の石高は如何といふと、寛永十一年(一六三四)の調査に六千百
八十三石三斗九升八合一勺五才と端数まで示した数字がある。こ
の新古両町を三郷に分けて見ると、豊臣時代から徳川時代にかけ
て北組の石高が一番多く、南組がこれにつぐが、徳川時代に於け
る石高増加は南組最も著しく、天満組は常に他の二組より遅れて
ゐた。固より石高の多少を以て、直に面積の広狭人口の多寡を論
ずることは出来ないけれども、大体においてはそれらを考慮する
標準とはなるでせう。要するに大阪は元和落城以後約二十年間に
豊臣時代の二倍に達した。目覚ましい進歩といはねばなりません。
石
古 町 五、〇〇〇.〇〇〇 | 石
新 町 六、一八三.三九八一五 |
北 組 南 組 天満組 | 二、八七六.七五七
一、四〇七.一七八 七一六.〇六四 |
二、四〇一.六二九一五
三、四五九.四七七
三二二.二九二 |
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