北組・南組・天満組といふのは大阪の区分で、総称して大阪
サンガウ
三郷といふ。天満組は大川以北、また南北両組は大川以南で、
大体本町通を以て境としてゐる。然るに寛永時代の書類に往々
伏見組といふ名が見える。これは伏見から移住した町々の総称
と思はれる。何時頃廃止せられたか判明しませんが、廃止に際
し、同組に属した町々は南北南組に分属したものと思はれます。
蓮如の消息に「生玉荘小坂」といふ文句あり、その小坂の小
が大にかはつて大阪になつたと申します。秀吉時代の大阪は東
横堀以東を指したが、元和偃武以後東横堀以西即ち船場・下船
場をも含み、それが南北両組に分れ、更に大川以北を加へて
――丁度江戸が本所深川を加へたやうに――大阪三郷となつた。
大阪の二字に包括する境域はかやうに次第に膨脹したのです。
コザト
伝手に申しますが、大阪の阪字は今日何人も阜扁の阪字を用ひ
ますが、徳川時代には一般に土扁の坂字を用ひた。稀に阪字を
用ひた例もありますが、それは多くは隷書や篆書で書いた場合
で、公文書には必ず土扁を用ひてゐます。明治になつても暫時
は阜扁土扁混用でした。大坂を大阪と書くべしといふ命令は曾
て官府から下されて居りません。して見れば全く慣用で阪字を
用ふるに過ぎません。
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