寛永十一年は大阪にとつて忘るべからざる年です。三代
将軍家光は同年閏七月大阪に立寄り、三郷一万一千百八十
三石余の地子銀を免除した。地子は今の地租に相当するも
ので、八ツ取といふから石高の十分の八を取る。一万一千
百八十三石余の十分の八は八千九百四十六石余、一石を銀
二十目に換算すると百七十八貫九百三十四匁余となる。毎
年上納しなければならぬこの地子銀を免除されたのですか
ら、市民にとつては莫大な恩恵です。そこで市民はこの恩
恵を永遠に記念するために何か宜い方法はないかと百方思
案した末、釣鐘を作り釣鐘屋敷を建て、時刻を報ずること
とした。鐘声を聞く毎に追憶を新にするといふ意味で、爾
来明治三年に至るまで約二百四十年の久しい間、日々三郷
市中に段々たる鐘声を伝へたものです。私が大阪にゐる頃、
この釣鐘は府立博物場の庭に雨晒しになつてゐましたが、
そんな無情の取扱をするものではないと考ヘます。今も上
町に釣鐘町の名が残つてゐますが、徳川時代の大阪絵図を
見ると、町の南側に釣鐘屋敷の位置が歴然とあります。
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