現存してゐる刊行大阪絵図中一番古いものは明暦元年(一六五
五)の「新板摂津大坂東西南北町嶋之図」です。或る人はこれを
偽作図とし、数ケ條の理由を挙げて居られるが、つまり明暦当時
の真の大阪の状態と明暦図上に見ゆる状態と合致せぬといふ点に
帰する。然しながら論者は明暦図を偽作と論断し得る程、それほ
ど明暦の大阪の真状態を如何なる材料によつて知られたか。何橋
何町は明暦時代になしといつても、その考証の根拠が明暦後何十
年の書類であつたり、或はまた史的価値の乏しい俗書であつては
薄弱ではないか。何丁目の数へ方は東より西へ行くのが順当であ
るに拘はらず、明暦図は逆だから、これも偽作の一証だとある。
なる程明暦以後の図に見える何丁目の数へ方は、論者のいふ通り
であるが、明暦若しくは明暦以前においては論者の所謂逆の数へ
方であったかも知れぬ。地図の内容は前版を襲ふことが多いから、
内容が刊年より古いことは随分ある。論者は少くとも明暦当時の
実際の数へ方が所謂順であつたといふ点を立証しなければならぬ
のに、一言もそれに及んで居らぬ。更に自分は論者に対し、本図
には若干これに改訂を加へた明暦三年版・天和三年版・貞享四年
版等がある。偽作図なら何の必要があつてかやうに数種の類版が
あるかと反問したいのである。繰返していふが刊行せられた地図
には内容と刊年と一致せぬ場合が随分ある。明暦図が地図として
可成能く出来てゐること及びその奥書の文句から考へても、京都
や江戸に寛永刊行の絵図のあることから類推しても、本図よりよ
り古い大阪図があつて、本図はその影響を受けて居るのではない
かと思ふ。
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