大阪は瀬戸内海を経て広く西方諸国と交通し、また淀川によつ
て全国の中心京都と密接の聯絡を保つた。淀川あるために大阪の
蒙つた利益が莫大であると共に、土砂沈滞河道壅塞による災害も
亦著しいものであつた。従つて淀川本支流に対する工事は仁徳天
皇以来幾十百回となく繰返され、徳川時代に至りまた大工事を見
るに至つた。工事の担任者は河村瑞賢、時期は第一回が貞享元年
から同四年まで(一六八四―八七)、第二回が元禄十一二年(一
六九七、九八)、範囲は淀川・宇治川・神崎川・中津川・伝法川・
大和川・木津川・大阪市内諸川、一口にいへば淀川本支流に及ん
だ。さうしてこれらの工事中直接大阪に関係した著しい分を挙げ
ると、(一)淀川の川口を一直線に掘割つたこと――(元禄十一
年、この新川を安治川と命名す)、(二)堂島川曾根崎川を浚渫
したこと、(三)堀江の地を東西に縦貫する堀江川を掘り、道頓
堀の下流及び古川富島を修理したこと、(四)市内諸川の水門を
ガンギ
撤し、両岸に岸岐を作つたこと等で、(一)の結果は安治川新地
九町を、(二)の結果は堂島新地十一町を、(三)の結果は堀江
新地二十四町・幸町新地五町・古川新地二町・富島新地二町を得、
更に(一)(三)によつて元緑以来安治木津両川口に追々新田の
開発を見るに至つた。(四)の結果平時の昇降を便ならしむるの
みか、増水の際陸地と平準面に至るまでの包容水量を著しく増大
し、これによつて漲溢の水害を除いたことは予想以上である。
【図略 大和川の附替】
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