Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その19

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  二 大 阪 (8)
管理人註

家数と人口 元緑以後の 新開地 江戸大阪の 人口増減の 趨勢

 新地開発以前大阪の町数は五百五十一町で、その中三町は堀江 川開鑿に際して潰されたが、今度新に五十三町を増したから合計 六百一町となり、家数一万七千二百七十九軒、人口三十五万一千 七百八人を数ふるに至つた。これは元禄十六年(一七〇三)の統 計である。家数が比較的に少いやうだが、この家は寧ろ一棟と解 すべきで、大阪では一軒一役といつて、家数は役数即ち課税の標 準であつた。尤も家には分合があり、家数と役数とは後世必ずし も一致しなかつたが、江戸の家数に相応する竈数といつてこれは 世帯数です。江戸の人口は元禄六年(一六九三)三十五万三千五 百八十八人、京都は正徳五年(一七一五)三十五万九百八十六人 といふ統計がある。同一年代の統計によつて三都を比較すること の出来ぬは残念であるが、京都は前より減じ、大阪と江戸とは着々 として増加の傾向をとつてゐる。そこに東西二大都市の溌剌たる 生活を看取し得る次第です。  新地開発新町取立の趨勢は元緑以後約八十年間連続してゐる。 その間に出来た新地新町を挙げると、  元堺町・元京橋町・元相生町  宝永五年(一七〇八)  曾根崎新地 三町       宝永五年(一七〇八)  西高津新地 九町       延享二年(一七四五)  堂島新船町          宝暦三年(一七五三)  難波新地 三町        明和二年(一七六五)    崎吉町            安永九年(一七八〇)  天満砂原屋敷         天明二年(一七八二) 合計二十一町で、これがために、従前の六百一町中二町を取潰し たから、差引合計六百二十町(北組二百五十町・南組二百六十一 町・天満組百九町)となり、この町数は幕末に至るまで変更があ りません。それから人口は寛文九年から寛延二年(一六六九―一 七四九)までは毎十年目、宝暦七年から安政三年(一七五七―一 八五六)までは毎年の統計がありますが、それによると元文四年 (一七三九)四十万に達するまでは多少の例外はありますが、先 づ増加の趨勢です。併し四十万に達してからそれ以上の増加は極 めて鈍く、明和二年四十一万千八百六十三人を最高とし、天明三 年(一七八三)にはとうとう四十万代を割り、それ以後ずつと三 十万代です。この点については江戸と趣を異にし、江戸は天保年 間において却て最頂点に達してゐます。

 


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