大阪の地図を見てすぐ気のつくことは、寺院が市街の片隅にか
ウヘ
たまつてゐることで上本町筋や天満の寺町筋がそれです。これは
度々の市区改正によつてかくの如く片隅に追込まれたもので、こ
の点は江戸も同様です。それから寺社門前地は江戸程多いとは思
ひませんが、殷賑であつたことは矢張り江戸同様で、天満の天神
ゴリヤウ
がその好適例です。操芝居の文楽座が久しい間御霊神社の境内に
興行してゐたのは、昔の面影をとゞめたものといへます。また大
阪では新開地に茶屋・売屋・風呂屋・芝居等を許可して、其所
の繁栄を計る風がある。曾根崎新地・難波新地・堀江新地皆この
例にもれぬ。
武家屋敷は江戸と比較すれば大阪には殆ど無いといつて宜い位
である。城の周囲と天満と若干あつたが、前者は城代・両定番・
城附与力・同心の屋敷、町奉行所・代官所等、又後者は町奉行所
附の与力同心の屋敷であつた。それから市中には大名・旗本・諸
藩老臣の蔵屋敷がある。中ノ島にあるのが最も多く、それから土
佐堀川江戸堀川といふ風に、何れも川べりの漕運の便のある処に
あつた。元禄十六年九十五邸、天保十四年百二十五邸を数へる。
元来蔵屋敷は蔵物即ち領内に産する物産の引請保管及び販売を掌
るための屋敷で、蔵屋敷に常住の武士の数は極めて少いものであ
つた。蔵物を売捌いたり、売上金を保管転送することは、皆出入
の町人が当つたから、大した人数が要る訳はないのである。さう
して一二を除くの外、蔵屋敷は皆町人の名義になつてゐるから、
江戸の武家屋敷とは大いに趣を異にしてゐる。大阪は嘗て帝都で
あり、信仰の中心であり、また政治的権力の中心であつたが、徳
川時代には最初の数年を除き、爾来引続き町人の都であつた。江
戸を武家の都、大阪を町人の都とするは、陳腐平凡な言ひ方では
あるが、正鵠を得てゐるものであらう。
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