Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その20

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  二 大 阪 (9)
管理人註

寺社門前地 蔵屋敷

 大阪の地図を見てすぐ気のつくことは、寺院が市街の片隅にか          ウヘ たまつてゐることで上本町筋や天満の寺町筋がそれです。これは 度々の市区改正によつてかくの如く片隅に追込まれたもので、こ の点は江戸も同様です。それから寺社門前地は江戸程多いとは思 ひませんが、殷賑であつたことは矢張り江戸同様で、天満の天神                      ゴリヤウ がその好適例です。操芝居の文楽座が久しい間御霊神社の境内に 興行してゐたのは、昔の面影をとゞめたものといへます。また大 阪では新開地に茶屋・売屋・風呂屋・芝居等を許可して、其所 の繁栄を計る風がある。曾根崎新地・難波新地・堀江新地皆この 例にもれぬ。  武家屋敷は江戸と比較すれば大阪には殆ど無いといつて宜い位 である。城の周囲と天満と若干あつたが、前者は城代・両定番・ 城附与力・同心の屋敷、町奉行所・代官所等、又後者は町奉行所 附の与力同心の屋敷であつた。それから市中には大名・旗本・諸 藩老臣の蔵屋敷がある。中ノ島にあるのが最も多く、それから土 佐堀川江戸堀川といふ風に、何れも川べりの漕運の便のある処に あつた。元禄十六年九十五邸、天保十四年百二十五邸を数へる。 元来蔵屋敷は蔵物即ち領内に産する物産の引請保管及び販売を掌 るための屋敷で、蔵屋敷に常住の武士の数は極めて少いものであ つた。蔵物を売捌いたり、売上金を保管転送することは、皆出入 の町人が当つたから、大した人数が要る訳はないのである。さう して一二を除くの外、蔵屋敷は皆町人の名義になつてゐるから、 江戸の武家屋敷とは大いに趣を異にしてゐる。大阪は嘗て帝都で あり、信仰の中心であり、また政治的権力の中心であつたが、徳 川時代には最初の数年を除き、爾来引続き町人の都であつた。江 戸を武家の都、大阪を町人の都とするは、陳腐平凡な言ひ方では あるが、正鵠を得てゐるものであらう。

 
  


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