Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その21

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (1)管理人註

江戸の町奉 行 評定所一座 大阪の町奉 行 定員 町奉行所の 位置 妙知焼

    第二 市 制  江戸大阪両市はかやうにして出来上つたが、さてこの両市をど うして治めたか。江戸では幕府の役人として、上には町奉行が居 り、下には名主が居り、さうしてその中間を町年寄が連絡してゐ る。大阪では町奉行は江戸同様であるが、江戸の名主に当るもの を町年寄といひ、江戸の町年寄に当るものを惣年寄といつて居る。 この三段の組織は大体において同様である。よつて江戸大阪と分 けず、両方を併せて記述する。  江戸の町奉行は江戸町奉行とはいはない。単に町奉行といつて それで江戸の町奉行を指してゐる。然るに大阪や京都ではそれ\゛/ 大阪町奉行京都町奉行と地名を冠してゐる。  江戸の町奉行は老中の支配に属し、府内の行政・裁判・警察等 一切の事を掌る。寺社奉行勘定奉行とならんで三奉行と称し、こ れに大目付目付を加へて評定所一座を組織する。評定所は幕府最 高の裁判所で辰ノ口にあつた。江戸の町奉行は始め諸大夫役(何々 守となつて徒五位下を授けられる)芙蓉間席であつたが、享保八 年より三千石高と定められ、それ以下のものが町奉行となれば、 在勤中三千石を与へられることとなつた。  大阪の町奉行もやはり老中支配・諸大夫役・芙蓉間席であるが、 知行ほ千五百石高で別に役料として現米六百石を与へられた。三 千石といへば四ツ物成にして三千石の十分の四、即ち千二百石が 正味の収入である。大阪の町奉行は石高は千五百石高なる故、そ の十分の四は六百石となるが、別に役料として現米六百石を与へ られるから、合計すれば同じ千二百石である。  町奉行は江戸大阪とも定員二名であつたが、元禄の頃には一時                      ナミ 三人のこともあり、また幕末には大阪に町奉行並といふものが出 来たこともあつた。然しそれは一時の変体で二名が定員である。 江戸では慶長九年(一六〇四)大阪では元和五年(一六一九)か ら設けられ、幕末に及んだ。  町奉行所を一に御番所とも称した。江戸では南北に分れるが、 大阪では東西に分れた。この南北、また東西は番所の所在地の位 置から来た区別で、番所の位置は江戸では再三変更せられたが、 南北の相対的位置は変らなかつた。      寛永八年 元禄十一年 宝永四年 享保十一年 文化二年  南御番所 呉服橋内―鍛冶橋内―数寄屋橋内―――――  北御番所 常盤橋内――――――鍛冶橋内―常盤橋内――呉服橋内 大阪では初め城の西北角の濠外に東西の番所が並び存したが、享 保九年(一七二四)三月の大火で、両町奉行所とも烏有に帰し、 それ以来西町奉行所は本町橋詰へ移つた。この大火の火元は妙知 といふ尼の住居であつたため妙知焼といひ、江戸の明暦の大火に 比すべき程のものであつた。町奉行所の広さは江戸は二千五六百 坪、大阪は三千坪で、大した差はない。役所であると同時に住宅 で、表が役所、奥が住宅です。

 


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