町奉行は一ケ月交代に月番となり、非番となる。非番に当ると
クヾリド
奉行所の大門を閉ぢ潜戸のみを開く。月番に当る町奉行は表門を
八文字に開き、その月の新しい公事訴訟を受ける。それが月番非
番の相違で、月番だから忙しい、非番だから楽だといふ訳は決し
てない。すべて町奉行には単独行為が許されてない。例へば一方
の町奉行が或る伺書を老中へ差出さうとすれば、予めその文案を
他の町奉行に示し、その同意を求め、「拙者儀何の存寄無之候」
とか、「異議無之候」とかいふ回答を得てから老中へ差出す。
その時は勿論両町奉行の連名です。それから内寄合といつて、月
番の役宅で両町奉行が対談協議することもある。決して書面の交
渉のみで済ました訳ではない。
町奉行に任期は無い。一生町奉行を勤めてゐたものもあれば、
一二年で交代した者もある。極端の例をいへば、任命されながら
赴任しない内に交代した大阪町奉行もある。幕府時代には何役を
無事に勤めれば、屹度何役に転ずるといふやうな、転任昇進の順
ヒサスケ
序が確定してゐないから、曾我丹波守古祐及びその子丹波守近祐
のやうに、親子相次いで大阪町奉行になつたものもあれば、遠山
左衛門尉景元のやうに江戸町奉行に再任したものもある。再任の
例は決して珍らしくない。然し何といつても一番名高いのは江戸
の南町奉行大岡越前守忠相である。八代将軍吉宗は徳川氏中興の
祖と崇められてゐますが、その仕事の何分の一はたしかに忠相の
仕事であるといひ得るでせう。忠相は町奉行から寺社奉行に転じ、
逐に大名に取立てられてゐます。町奉行の出身で大名に取立てら
れたのは大岡越前守一人です。
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