町奉行の配下には与力と同心とがある。与力は江戸が南北二十
五騎づゝ計五十騎、大阪が東西三十騎づゝ計六十騎、同心は両地
とも五十人づゝであつた。江戸の同心は寛文以来色々増減があり、
享保四年(一七一九)に百人づゝに定まり、その後更に増加があ
つて最後には百四十人づゝ計二百八十人となつた。
与力の二百石は江戸大阪同様ですが、同心は大阪十石三人扶持、
江戸は享保度の二百人は三十俵二人扶持、享保度以後に増加した
八十人は二十俵二人扶持です。二百石あれば軍役として馬一匹を
出すべきものと規定されてゐる。それで与力を数へる時は何騎と
いふのださうです。それから一俵は三斗五升入、一人扶持は米五
合の割で、三十俵二人扶持も十石三人扶持も大した変りはなく、
二十俵二人扶持に至つては極めて薄給といはなければなりません。
身分をいへば与力も同心も御抱席といつて表向一代限のものです
が、父が隠居したり、死亡したりするとその子が嗣ぎますから、
実際は御譜代同然です。然し名義の上からいへば、御抱席は御譜
代より一段劣つてゐる。彼等の屋敷は江戸は京橋の八丁堀に、大
阪は天満にあつた。大阪の与力町同心町といふ町名はその縁故に
よつて明治になつて附けた名です。
一口に与力または同心といつても、本人の勤務年数や技倆才覚
に従つて格も違へば担任も違ふ。十五六歳になれば番所へ出て仕
事を見習ふ。それが所謂見習で、見習が済んでから本勤となる。
本勤といへば何々役といつて一定の仕事を担任する、若し本人が
腕利で他の役をも兼勤すればその方を加役といふ。役は時代によ
つて相違があるが、与力同心双方に共通の役もあり、又同心だけ
の役もある、人数は両方の奉行所から同数を出す。江戸の与力は
南北各々五番組に分れ、各番組について与力の首席を支配、同心
の首席を年寄と呼んだ。大阪にはかやうな組別はなかつたやうで
すが、やはり与力の上席を支配、同心の上席を筆頭組頭などと申
しました。然し三役といつて地方・川方・寺社方はいずれも古参
腕利が勤めたさうです。
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