Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.31

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その23

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (3)管理人註

与力同心の 員数 俸禄 御抱席 勤務

 町奉行の配下には与力と同心とがある。与力は江戸が南北二十 五騎づゝ計五十騎、大阪が東西三十騎づゝ計六十騎、同心は両地 とも五十人づゝであつた。江戸の同心は寛文以来色々増減があり、 享保四年(一七一九)に百人づゝに定まり、その後更に増加があ つて最後には百四十人づゝ計二百八十人となつた。  与力の二百石は江戸大阪同様ですが、同心は大阪十石三人扶持、 江戸は享保度の二百人は三十俵二人扶持、享保度以後に増加した 八十人は二十俵二人扶持です。二百石あれば軍役として馬一匹を 出すべきものと規定されてゐる。それで与力を数へる時は何騎と いふのださうです。それから一俵は三斗五升入、一人扶持は米五 合の割で、三十俵二人扶持も十石三人扶持も大した変りはなく、 二十俵二人扶持に至つては極めて薄給といはなければなりません。 身分をいへば与力も同心も御抱席といつて表向一代限のものです が、父が隠居したり、死亡したりするとその子が嗣ぎますから、 実際は御譜代同然です。然し名義の上からいへば、御抱席は御譜 代より一段劣つてゐる。彼等の屋敷は江戸は京橋の八丁堀に、大 阪は天満にあつた。大阪の与力町同心町といふ町名はその縁故に よつて明治になつて附けた名です。  一口に与力または同心といつても、本人の勤務年数や技倆才覚 に従つて格も違へば担任も違ふ。十五六歳になれば番所へ出て仕 事を見習ふ。それが所謂見習で、見習が済んでから本勤となる。 本勤といへば何々役といつて一定の仕事を担任する、若し本人が 腕利で他の役をも兼勤すればその方を加役といふ。役は時代によ つて相違があるが、与力同心双方に共通の役もあり、又同心だけ の役もある、人数は両方の奉行所から同数を出す。江戸の与力は 南北各々五番組に分れ、各番組について与力の首席を支配、同心 の首席を年寄と呼んだ。大阪にはかやうな組別はなかつたやうで すが、やはり与力の上席を支配、同心の上席を筆頭組頭などと申 しました。然し三役といつて地方・川方・寺社方はいずれも古参 腕利が勤めたさうです。

 


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