Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その26

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (6)管理人註

江戸の町年 寄 樽屋 奈良屋 喜多村 収入

江戸の町年寄は樽屋・奈良屋・喜多村三氏の世襲です。奈良屋と 喜多村の先租は家康に従つて江戸に移り、樽屋の先租は水野弥吉 といつて長篠合戦に出陣した者であるが当時は浪人して江戸に居 たといふ。兎に角三人共開府早々町年寄格を命ぜられ、また神田 玉川の両上水を掌り、関口・小日向・金杉の代官を兼務し、町人 とはいひながら帯刀熨斗目着用を許された。尤も後年水道の管掌 と代官の兼務とを免ぜられ、帯刀は禁止となつたが、三氏は依然 として町年寄職を奉じ、年頭及び大礼に将軍に拝謁し、献上物を いたし、以て明治元年に至つた。三家の役所は住居兼帯で、樽屋 の役所は本町二丁目に、奈良屋の役所は本町一丁目に、また喜多 村の役所は本町三丁目にあつた。  樽屋は代々藤右衛門といふ。京都の福井作右衛門が西三十三ケ 国で使用する枡に焼印を押すやうに、樽屋は東三十三ケ国で、使 用する枡に焼印を押した。元祖の弥吉は長篠役で朝に敵の三首級 を挙げ、昼に四首級を挙げたため、家康から感状を得た。そこで 祝儀として酒樽を献じ、樽の口へ桔梗の花を挿した所、それがま た痛く家康の気に入り、爾来樽三四郎と名乗り、桔梗を以て家紋 とせよと仰付けられたといふ家伝がある。家伝だから大して信用 は出来ないが面白い話です。奈良屋は代々市右衛門といひ、東海 道・中山道に一里塚を築いたのは樽屋・奈良屋両人の仕事でした。 喜多村は通称を彦右衛門又彦兵衛といひ、これのみは最初から氏 を称してゐる。但し樽屋は寛政二年に樽氏を称へ、奈良屋は天保 五年に館氏となつた。大館家の一族といふ意味からです。当時の 市右衛門は在職六十五年といふ異数の履歴を作つたため、晩年与 力格に進み帯刀を許された。樽の一族で地割役を勤めてゐた三右            ナミ 衛門が慶応四年に町年寄並を命ぜられたが、間もなく三軒と同時 に廃止となつた。  三家は自分の屋敷の外更に数ケ所の町屋敷を賜り、その地代を 収入とした。それが一年に約五百五六十両乃至六百両あつたとい ふ。類焼の節金米の拝領拝借も度々あつたといへば、幕府の手厚 い保護を受けたものといはれます。

 


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