Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その27

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (7)管理人註

大阪の惣年 寄 惣会所 惣年寄の職 務 収入 惣会所の所 員

 大阪で江戸の町年寄に匹敵するものは惣年寄で、三郷に分属し てゐる。世襲ではあるが、多人数であるだけ興廃もあり、分属も かはつた。延宝七年に北組十人・南組七人・天満組五人、計二十 二人であるが、慶応四年には北組五人・南組四人・天満組三人、 合計十二人となつてゐる。延宝から慶応まで連続した家は、北組 では伊勢村(伊勢村屋)・川崎(川崎屋)・永瀬(木屋)・江川 (新屋、もと天満組)、南組では井吉(吉文字屋)・安井・金谷 (金屋、もと天満組)、天満組では中村(紀伊国屋)・今井(大 和屋)の九軒である。安井は道頓堀の開鑿者安井道頓の弟九兵衛 の家で最初から氏を称してゐます。  大阪の惣年寄は銘々の居宅を以て役所とはしてゐなかつた。即 ち毎郷に惣会所なるものがあり、惣年寄は其所へ集合して事務を 執つた。即ち天満組は天満七丁目、今の北区河内町に、北組は平            サカウ 野三丁目、今の四丁目旧堺卯楼の跡に、また南組は本町五丁目、 今の四丁目に惣会所があつたが、南組の分は享保の妙知焼で焼け てから南農人町一丁目に移つた。広さは各々五百坪ばかりといふ ことです。 惣年寄の職務をその勤書によつて挙げると、(一)御触の伝達、 (二)奉行所の依頼による諸調査、(三)新地の地割、(四)地 子銀・地代銀・運上銀の徴収及び上納、(五)町々年寄の任免、 (六)諸仲間の人別調査並びに諸仲間で選んだ年寄の身元調査上 申、(七)川船所持人及び借受人の元帳調査、(八)新版物の稿 本の調査上申、(九)出火の節火消人足の指揮等であつて、その 中(一)より(六)までは江戸の町年寄と同様です。尤も(五) の町町年寄の任免は、江戸では町々名主の任免であることは申す までもありません。江戸では(七)は勘定奉行支配の川船役所で 取扱ひ、(八)は町年寄の奈良屋(館氏)がこれに当り、(九) は名主の仕事でした。かく多少の相違はあつても大体において大 阪の惣年寄は江戸の町年寄と同様であるといヘます。  惣年寄が歳首及び大体の都度、将軍に拝謁し且つ献上物をいた すことは町年寄同様です。但し北組から一名、南組天満組から交 互に一名、つまり二名出る。それから惣年寄の中四人は糸割符年 寄となり、毎年一名づゝ長崎へ下りました。天満の今井・中村両 惣年寄が質屋年寄を兼ねてゐるのは特例です。  惣年寄は名誉職ですから給料といふものは無い。たゞ一役免除 の特典を有してゐましたが、後に五役免除となつた。役とは家に             ウハニ         チヤ 対する税である。それから上荷船三百艘、茶船二百艘の使用権を 有し、これを営業者に貸付けて料金を収め、またべか車の運上を 収納する。べか車といふのは車の輪及び簀の子を全部板で製した 一種の荷物車で、積載量三十貫、車力二人掛りで、定数は千六百 七十八輌です。この外、年始・八朔・歳暮に町々から礼銀を貰ひ                     ミソカセン ますが、これは江戸の町年寄が古町から貰ふ晦日銭といふものと 同様でせう。これは町年寄が使つてゐる手代の給料にあてるもの だといふ説もありますが、兎に角一度は町年寄の手に入る金額で す。  惣会所の所員には(一)惣代がある。最初は北組に三人、南組 天満組に各々三人づつであつたが、次第に員数を増し、最後には 北組七人・南組六人・天満組四人となつた。天満組は郷が小さい から総ての規模が小さい。(二)惣代の下にこれを補助する手代                        モノカキ がある。惣代一人につき手代一人の比です。(三)物書といつて 書類の認方に従事する者がある。北組南組各々三人、天満組は二 人で、後には物書の外に更に筆工といふものも出来た。これは定                       クワイシヨモリ 雇と臨時雇とを併せて毎郷三人づゝある。(四)会所守は会所の 書類を保管する役で毎郷一人づゝゐる。それから(五)小使人足 が北組南組各々二十一人、天満組十七人あつた。江戸の三年寄の 役所の組織が分らぬのは残念です。

 


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