Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その29

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (9)管理人註

名主の進退 名主の組別

 江戸の名主は世襲と申しましたが、最初名主を見立てる時は、 町中の町人が集まつて定めたことゝ考へられる。選挙によつたか、 相談によつたか、兎に角一同が同意して名主を見立てたのであら う。大阪は始終それを繰返し、江戸は一度名主を見立てた以上、 後は世襲となつてしまつた。名主が退役する時は退役願と跡名主 役願を月番の町年寄役所に差出す。退役願は名主が差出人で、こ れに支配町々の町人一同が連印するが、跡名主役願の方は町人一 同が差出人で、後継者の氏名・年齢・前名主との関係・所有屋敷 の間口奥行等が記してある。町年寄役所では組合名主に命じて新 に名主たるべきものゝ身元を調査せしめ、その復命を待つて町年 寄が本人に面会し、一件書類に町年寄自身の意見を添へて月番の 町奉行所に進達する。町奉行所では掛与力が町年寄の意見書に 小紙片を貼附し、それに自分の意見を記して町奉行へ差出す。す          ヒレツキ べてこの種の形式を鰭付といふのは、原書に貼付けた小紙片が丁                         ムカヒ 度魚に鰭がついてゐるやうだからでせう。書類は更に向方即ち非 番の町奉行所に廻り、そこの掛与力及び町奉行の承認を経、そ れで可決確定すると、今度は町奉行から町年寄へ、町年寄から町 中へ許可の旨を申渡し、町中及び新名主は右申渡に対して一紙の 請書を差出し、それで落着です。  世襲といつても親から子に、兄から弟に伝へるといふやうな簡 単な場合ばかりではない。表面養子と称して、内実名主の跡式を 売るやうな場合もあれば、名主に何か落度があつて免職になつた 場合もある。前の場合には町奉行所から隠密廻を派遣して事情 を調査せしめ、跡役願の儀成り難しと否認した例がある。また後 の場合には一時組合持となり、その間に新に名主を見立てゝ町中 から出願するのである。或は附近の名主支配へ加はる場合もある。    ツケ これを附支配といふ。下から願へば附支配であつて、上から命ぜ       マシ られゝば増支配である。しかしこれと反対に名主支配の町々の中 で名主の支配を離れたいといつて騒動した例もあります。  名主は享保七年(一七一一)六月を以て一番組から十七番組ま で十七組に分れた。是より先き町奉行大岡越前守から奈良屋市右 衛門に対し、近来名主多人数にて中には不埒の者もある、よつて 自今病死またほ退職する名主あらば、同人の支配町々を隣町名主 の支配に加へ、名主の人数を減少するようにとの沙汰があつた。 これでは名主世襲の旧習を破壊し、安んじて名主職を勤めるもの がなくなるだらうといつて、市右衛門は一応反対を試みたが、更 にその反対を有效ならしむべく、名主二百六十三人をして組合を 作らしめ、内外相制して屹度不埒の所業に及ばざるやう心掛くべ しと誓はしめ、それによつて名主人数減少案を中止せしめた。十 七番組は本所深川で場所が広いため、その一部を割いて十八番組 を置いたのは組合創立から間も無いことでせう。十九番組は寛延 元年(一七四八)、二十番二十一番組は翌年出来し、以上二十一 組、それに番外の二組新吉原町品川町を加へ、そのまゝ幕末に至 りました。十九―二十一番組出来の原因は寺院門前を町方支配と し、一―十八番組に割込んで見た所、場所が飛離れて甘く組込め ぬ分があつたからです。

 


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