本篇の主眼
江戸氏
太田道灌江
戸城を築く
上杉氏
北條氏
徳川家康江
戸に入る
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第一 市街の発展
一 江 戸
日本経済史の上から見て、江戸と大阪とを比較し、また両市間
の関係を研究するのが本篇の主眼です。場所からいへば江戸大阪
両地に限り、時代からいへば徳川時代に限ります。問々記事が場
所や時代の制限の外に出で、また政治・地理・社会・文芸等に捗
ることがあつても、それは主題の研究を補助し釈明し得る程度に
止めた積りです。
江戸といふ名稀は東鑑治承四年(一一八〇)十月の條に川越と
共に見えてゐるのが最も古いものであらう、即ち江戸太郎重長・
河越太郎重頼の名が見える。さうしてこの太郎重長には次郎親重・
四郎重通・七郎重宗などといふ兄弟があつた。つまり鎌倉時代に
江戸在任の豪族に江戸氏なるものがあつたことは明らかである。
治承から二百七十余年の後、長禄元年(一四五七)扇ケ谷上杉定
政の老臣太田道灌が古河公方足利成氏に対抗せんがため江戸城を
築き、又川越城をも築いた話は有名である。道灌は文筆を好み、
五山の僧侶に嘱し、城中の一亭静勝軒を題として詩を作らしめ、
蕭庵龍統がその序文を作つた。右の序文の中に「城之東畔有 河、
其流曲折而南入 海、商旅大小之風帆、漁猟来去之夜篝、隠 見出
没於 竹樹煙雲之際 、到 高橋下 繋 纜閣 櫂、鱗集蚊合、日々成
市、則房之米、常之茶、信之銅、越之竹、相之旗旄騎卒、泉之珠
犀異香、至 塩魚漆 巵茜筋膠薬餌之衆 、無 不 彙聚区別 者、
人之所 頼也、云々」とある。これによれば太田氏の江戸城下に
は既に四方の商人が来会してかなり盛んに商業を営んで居つたも
のと思はれる。
道灌が江戸城を築いた当時、上杉氏は扇ケ谷上杉山ノ内上杉の
両家に分れ、敵方の古河公方が優勢であつた間は協同してこれに
当つたが、敵勢が衰微してから両家の問に内訌を生じ、道灌の主
人定政は山ノ内家の計策に乗つて道灌を殺した。爾来江戸城は扇
ケ谷上杉氏の有する所となつたが、定政から二伝して朝興に至り、
北條氏綱に攻められ、朝興は江戸を落ちて川越に移ることとなつ
た。
江戸は北條氏の支配下にあること約七十年、天正十八年(一五
九〇)に至り、新領主として徳川家康を仰ぐに至つた。往時八朔
即ち八月一日を以て祝日の一つとしたのは、天正十八年八月朔日
を以て家康が江戸に入つたことを記念するためであつた。是より
先き豊臣秀吉は小田原城攻撃中、家康に北條氏の領土なる関東八
州を与ふる旨を漏らし、且つ居城として江戸を推薦したやうであ
る。尤も秀吉が家康を関東に封ずる旨を公然発表したのは落城後
の七月十三日であつたが、前から内意があつたので、家康の方で
も予め諸般の準備を整へたと見え、早くも八月の朔日に江戸入を
見るに至つたのである。家康は時に年四十九であつた。
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