Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.2.28

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その3

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  一 江 戸 (1)
管理人註

本篇の主眼 江戸氏 太田道灌江 戸城を築く 上杉氏 北條氏 徳川家康江 戸に入る

  第一 市街の発展    一 江 戸  日本経済史の上から見て、江戸と大阪とを比較し、また両市間 の関係を研究するのが本篇の主眼です。場所からいへば江戸大阪 両地に限り、時代からいへば徳川時代に限ります。問々記事が場 所や時代の制限の外に出で、また政治・地理・社会・文芸等に捗 ることがあつても、それは主題の研究を補助し釈明し得る程度に 止めた積りです。  江戸といふ名稀は東鑑治承四年(一一八〇)十月の條に川越と 共に見えてゐるのが最も古いものであらう、即ち江戸太郎重長・ 河越太郎重頼の名が見える。さうしてこの太郎重長には次郎親重・ 四郎重通・七郎重宗などといふ兄弟があつた。つまり鎌倉時代に 江戸在任の豪族に江戸氏なるものがあつたことは明らかである。 治承から二百七十余年の後、長禄元年(一四五七)扇ケ谷上杉定 政の老臣太田道灌が古河公方足利成氏に対抗せんがため江戸城を 築き、又川越城をも築いた話は有名である。道灌は文筆を好み、 五山の僧侶に嘱し、城中の一亭静勝軒を題として詩を作らしめ、 蕭庵龍統がその序文を作つた。右の序文の中に「城之東畔有河、 其流曲折而南入海、商旅大小之風帆、漁猟来去之夜篝、隠見出 没於竹樹煙雲之際、到高橋下纜閣櫂、鱗集蚊合、日々成 市、則房之米、常之茶、信之銅、越之竹、相之旗旄騎卒、泉之珠 犀異香、至塩魚漆巵茜筋膠薬餌之衆、無彙聚区別者、 人之所頼也、云々」とある。これによれば太田氏の江戸城下に は既に四方の商人が来会してかなり盛んに商業を営んで居つたも のと思はれる。  道灌が江戸城を築いた当時、上杉氏は扇ケ谷上杉山ノ内上杉の 両家に分れ、敵方の古河公方が優勢であつた間は協同してこれに 当つたが、敵勢が衰微してから両家の問に内訌を生じ、道灌の主 人定政は山ノ内家の計策に乗つて道灌を殺した。爾来江戸城は扇 ケ谷上杉氏の有する所となつたが、定政から二伝して朝興に至り、 北條氏綱に攻められ、朝興は江戸を落ちて川越に移ることとなつ た。  江戸は北條氏の支配下にあること約七十年、天正十八年(一五 九〇)に至り、新領主として徳川家康を仰ぐに至つた。往時八朔 即ち八月一日を以て祝日の一つとしたのは、天正十八年八月朔日 を以て家康が江戸に入つたことを記念するためであつた。是より 先き豊臣秀吉は小田原城攻撃中、家康に北條氏の領土なる関東八 州を与ふる旨を漏らし、且つ居城として江戸を推薦したやうであ る。尤も秀吉が家康を関東に封ずる旨を公然発表したのは落城後 の七月十三日であつたが、前から内意があつたので、家康の方で も予め諸般の準備を整へたと見え、早くも八月の朔日に江戸入を 見るに至つたのである。家康は時に年四十九であつた。


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