Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その4

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  一 江 戸 (2)
管理人註

関八州の首 府 城の位置の 変遷

 秀吉は何故に江戸を家康に勧め、家康も之を承諾したか。関東 の要地についていへば、鎌倉は頼朝以来久しく幕府の所在地であ つて、室町時代にも管領を置かれた歴史的の地である。また小田 原は北條氏の居城として、早雲以来最後の氏直に至るまで、五代 引続き同城に拠り、その城下は当時頗る繁栄であつた。さういふ 鎌倉や小田原を捨てゝ、江戸を選んだのであるから、人々の吃驚 したのも無理はない。岩淵夜話別集に「関八州家康公御りやうち となり候へども、御在城の儀はいまだいづかたとも仰出されず、 さるによつて御はた本の諸人のつもり、十人に七八人は相州小田 原とすいりやう仕、その内二三人も鎌倉にて御ざあるべきかなど と申衆も有。しかる所に秀吉公と御相談のうへにて、武州江戸を 御居城と仰出さるゝに付、諸人手を打て、是はいかにとおどろく。 子細はその時代までは東の方平地の分は、こゝもかしこも汐入の 芦原にて、町や侍屋敷を十町とわり付べきやうもなく、さて又西 南の方はびやう\/と萱原武蔵野へつゞき、どこをしまりといふ べきやうもなし。御城と申せば昔より一国ともつ大名のすみたる にもあらず、上杉の家老太田道灌斎初て縄を張とりたて、その後 北條家の遠山住居せしまでなれば、城もちいさく、堀の幅もせば く、門塀のていまで中\/あさまなるやうすなれば、関八州の大 守の御座城となさるべきやうだいには、人人ぞんじよらざるもこ とはりなり」とあるのは、能く実情を穿つた叙述と思ふ。  従来城は要害堅固を以て第一の要件とし、交通の便否などより も、敵勢が攻寄せて来た時に防禦に適した嶮岨な場所を選んで設 けたものであつた。然るに時代が降るにつれて、領地全体を防禦 地域と考へるやうになり、出入口を堅固に防ぎ、領地全体を統御 する中心地に居城を築き、その城下に多くの町人を集め、商業を 盛んにする風になつて来た。近世の城下町の発展はこれによるも のである。秀吉はこの時代の変化に注意し、防禦上にも、政治上 にも、また経済上にも、最も適切な場所として江戸を勧めた。彼 自身が関西で経営した大阪を関東に出現せしむべく家康に勧めた に相違なく、さうして家康がそれと同意見であつたと解すべきで あらう。










岩淵夜話
大道寺友山著述、
徳川家康の事跡
についての説話


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