Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その33

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (13)管理人註

歩一 歩一以外の 失費 家質

 家屋敷の買入には種々の費用を要した。先づ新規の買主は家屋 敷の代金の何分の一かをその町に納めなければならなかつた。江        ブイチ 戸ではこれを歩一金といひ、大阪は銀遣ひですからこれを歩一銀 といひ、また帳切銀ともいふ。歩一とは何分の一の意、帳切とは 水帳即ち土地台帳を張替へる意味です。江戸では宝永五年に百両 につき二両、それより以下は従来の通ときまりましたから、そ れより以前は二両内外で一定しなかつたものと見えます。大阪で は豊臣時代から既に奉行所で帳切銀をとつてゐた。銀高は最初四 十分の一、徳川氏の直轄になつてから二十分の一に増加したが、 家光の寛永上洛の時、地子銀免除と同時にその町内の収入に移さ れた。江戸では何時から町の収入となつたか判然しません。歩一 の制度は現在の登記法の魁をなすものといふべきである。  歩一を支払つた後もまだ色々の費用が要る。江戸ならば名主以 下へ、大阪ならば町年寄以下の町役人へ祝儀を贈り、又町内の町 人一同を招待し、酒肴を備へて饗応をしなければならなかつた。 その外何だ彼だといつてむしりとられるため、折角家屋敷を買ひ たいと思つても二の足を踏むやうになる。それでは市全体の衰微 になるから、将来は無益の出金を慎み、買主の心祝に差出す分は 兎に角、買主に迫つて出銀させるやうなことは決して相成らぬと いふ御触が、大阪で天明八年(一七八八)に出てゐます。江戸で は宝永三年(一七〇六)の町触に、町中家屋敷売買の節、名主五 人組の差図で大分の町礼金を出させ、その上芝居見物又は船遊山 を引請けしめ、買主共別して迷惑致す由相聞へ、名主共の仕方不 届至極と責め、同五年に歩一金高を定め、祝儀は買入れた家屋敷 の代金・間口・町役にかゝはらず、名主へ銀二枚(銀一枚が金三 分位ですから二枚で一両二分位)、五人組へ金百疋(金百疋は一 分に当る)づゝ、家持一人へ鰹節一連づゝ、その他は一切無用と 命ぜられた。して見れば今迄は代金・間口・町役に応じて祝儀の 金高が違つた。それが今度は一定せられ、減少せられ、さうして 寛政の町法改正により、最後の鰹節の一條すら廃止された。併し 大阪でも江戸でも同じ意味の法令が度々繰返されて居る所を見る と、実際においては利目が無かつたらしい。それは両地とも町々 に式目とか定法とかいつてその町の規約がある。それには江戸な ら名主・書役・木戸番人・髪結に、大阪なら町年寄・町代及び同 人家内・夜番及び同人家内・髪結等に祝儀を遣ることに定まつて ゐる。さうしてこの祝儀銀は独り家屋敷売買の場合のみならず、 家督相続・養子・元服・祝言・家守替等、色々な場合に支出させ る風習であつた。  身元保証や貸借の担保に提供せられた家質は案外広く行はれ、 利子は比較的安かつた。利子の安いのは家質の広く行はれた一つ の証拠と見ることが出来よう。家質も売買と同様な手数で、話が 調ふと肴代を出した。

 


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