Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その34

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (14)管理人註

家質奥印差 配所 川浚冥加金

 大阪で明和四年(一七六七)十二月江戸の町人清右衛門・大阪 周防町津ノ国屋長右衛門・住吉屋町紙屋利兵衛の三人が一年に冥 加金九千九百五十両を差出して、家質奥印差配所といふものを取 立てた。これは三郷及び近在の百姓に至るまで、家屋敷や諸株を 質に差入れる時には、必ずその証文に差配所の奥印を受けなけれ ばならぬといふのであつて、いはゞば今日の登録である。さうし て奥印を受ける時には、銀一貫目につき貸主より四匁、借主より 六匁、合せて十匁、即ち金額の百分の一に当る奥印料を差配所に 納め、然も家質は六ケ月毎に、諸株質は一ケ年毎に証書を書替へ ねばならぬことゝした。株の方は暫く差置き、家質だけで見ると、 差配所の収入は銀額一貫目につき一ケ年銀二十目であるから、家 質の奥印料だけで差配所の冥加金九千九百五十両を収めるために は、金一両を銀六十匁と換算して家質銀総高二万九千八百五十貫 目のものがなくてはならぬ訳である。勿論この冥加金の外に、差 配所の諸経費を支弁し、更に差配所設立者にとつて相応の所得を 与ふる程の家質銀高がなくてはならぬ。それは少くも三万貫目以 上であつたらう。三郷の売券高三十万五千二百八十七貫五百目と いふ統計があるから、売券高の十分の一以上が家質に入つて居た と考へられるのである。して見ると家質は随分広く行はれたもの といひ得よう。  町人が自分の家屋敷や株を質に入れるのは已むを得ないからで ある。秘密の中に取計らひたいのは人情である。差配所の奥印を 請けては財産の内容を打明けるやうなもので、如何にも苦しい。 それで三郷町人は差配所設立に大反対を試み、彼等は続々として 町奉行に抗議を上つたが、何分幕府から既に許可を得た計画であ るので、町奉行一存で中止を申渡す訳に行かぬ。色々説諭して見 ても市民の不平は鎮まらない。到頭それが爆発し、翌五年正月二 十二日から二十四日へかけて、差配所一件の張本人である津ノ国 屋長右衛門・紙屋利兵衛及びその一派の数十軒の家屋を破壊して しまつた。余程人気が興奮したものと見え、この騒動をあてこん で「梅花香二王ノ門日」いふ寓話体の小冊子が出版せられたが、 忽ちそれは出版禁止となつてゐます。その後町奉行の交代があつ たり、与力が江戸へ召されたり、大分幕府の方でも人心の鎮撫方 に心配したらしい。然しながら朝令暮改は幕府の威光にも関はる から、町奉行は再三市民に教諭を加へ、或は三郷地子銀免除の特 典を引いて殊恩の忘るべからざることを説き、或は家質の利銀が 従来七八朱であつたものが、近年三・四朱に低下し、四民安穏に 世業を営むを得るは、全く幕府の恩沢であること等を諭したので、 結局市民は泣寝入となり、同年の暮から愈々奥印を実施することゝ なり、同時に幕府は冥加銀の一部九百十両を以て大阪の川浚を行 ふことゝした。つまり市民の不平を鎮撫する一手段として遣つた のですが、間もなくその金額を増加して四千九百両とした。併し 差配所奥印の件は如何にしても市民の承服を得難い。寧ろ差配所 を廃止し、差配所から納めて居つた冥加金全部(九千九百五十両) を川浚冥加金といふ名目で徴収した方が適当であらうといふ町奉 行の建議によつて、安永四年(一七七五)以後一年三回、二月・ 五月・十月に分納させ、右金額の中から四千九百両だけを川浚費 に使用した。川浚冥加金の割方は、三郷の売券高三十万五千二百 八十七貫五百目で冥加金総額を除ると、一貫目につき一匁九分五 厘六毛となる。これを毎町の売券高に応じてその町の負担額を定 め、更にその町では表間口の間数に割当てゝ町人から集めた。こ の割方を間口割といふ。大阪町人の特殊の負担であつた川浚冥加 金はこんな原因で起つたものです。  【図 梅花香二王ノ門日 略】

 


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