町人の負担
地子銀免除
の町々
然らざる町
町
公役
江戸の御用
人足高
その賦課法
公役小間
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次ぎに大阪町人の一般の負担を述べる。町人の負担を江戸では
総称して町入用といひ、大阪では公役町役と二つに分けてゐる。
公役は町奉行所及び惣会所に関係した費用、町役は一町限りの費
用、つまり大阪の町人として納めるのが公役、その町の町人とし
て納めるのが町役である。一体江戸も大阪も町々は地子銀即ち年
貢免除の地です。大阪の地子銀免除は寛永十一年と判然してゐま
すが、江戸の方は年号を書いたものを見ません。但し両地とも元
来代官領であつて、後に開けて市街地となつたものは地子銀を納
める。大阪ではこれを町役御年貢両役の分といひ、江戸では町並
地と称へました。
地子銀を免除された町々は公役を負担する。公役は上古の庸に
当るもので、人夫を差出すことです。大阪ではわかり易いやうに
これを御用人足賃といひます。年貢を納める町々は公役を納めま
せんが、寺社領寺社門前は年貢も納めず、また公役も納めません。
また江戸では国役といつて、特別の奉仕に従事する六十余町も公
役を納めません。公役は古くは実際に人夫を町々より差出したの
ですが、後に銀納となつたものであらう。江戸では享保七年(一
七二二)大岡越前守の上申により一切銀納となつた。越前守は昨
年使用の人足数九万四千二百六十人に、従来無役であつた町屋敷
並びに拝領屋敷・組屋敷の町家より、自今新に差出すべき人足数
四万七千九百人を加へ、合計十四万二千百六十人、一人一日二匁
として銀二百八十四貫三百目、この金四千七百三十両余を差出す
べしと定めた。さうしてその賦課の方法は役を出す町地を上・中・
下三等に区分し、上は間口京間五間を、中は七間を、下は十間を
それ\゛/一役とし、一役につき一年人足十五人宛を出すことと
した。その後拝領屋敷に限り、その率を減じ、上は七間、中は十
間、下は二十間を以て一人役とし、更に元文四年(一七三九)人
足費を二割引とした。これにより上は間口一間に四匁八分、中は
三匁四分二厘八毛、下は二匁四分を出すこととなり、総計三千四
百八十三両三分余となつた。
かやうに公役は表間口を標準として課したが、町々では便宜上
地形の広狭を平均して二十坪を一公役小間と定めて徴収すること
となつた。総計して公役小間十三万五千四百四十二間、町数は七
百二十八町といふことです。公役小間は他の費用を割当てる時に
も標準として使用された。
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