Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.18

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その35

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (15)管理人註

町人の負担 地子銀免除 の町々 然らざる町 町 公役 江戸の御用 人足高 その賦課法 公役小間

 次ぎに大阪町人の一般の負担を述べる。町人の負担を江戸では 総称して町入用といひ、大阪では公役町役と二つに分けてゐる。 公役は町奉行所及び惣会所に関係した費用、町役は一町限りの費 用、つまり大阪の町人として納めるのが公役、その町の町人とし て納めるのが町役である。一体江戸も大阪も町々は地子銀即ち年 貢免除の地です。大阪の地子銀免除は寛永十一年と判然してゐま すが、江戸の方は年号を書いたものを見ません。但し両地とも元 来代官領であつて、後に開けて市街地となつたものは地子銀を納 める。大阪ではこれを町役御年貢両役の分といひ、江戸では町並 地と称へました。  地子銀を免除された町々は公役を負担する。公役は上古の庸に 当るもので、人夫を差出すことです。大阪ではわかり易いやうに これを御用人足賃といひます。年貢を納める町々は公役を納めま せんが、寺社領寺社門前は年貢も納めず、また公役も納めません。 また江戸では国役といつて、特別の奉仕に従事する六十余町も公 役を納めません。公役は古くは実際に人夫を町々より差出したの ですが、後に銀納となつたものであらう。江戸では享保七年(一 七二二)大岡越前守の上申により一切銀納となつた。越前守は昨 年使用の人足数九万四千二百六十人に、従来無役であつた町屋敷 並びに拝領屋敷・組屋敷の町家より、自今新に差出すべき人足数 四万七千九百人を加へ、合計十四万二千百六十人、一人一日二匁 として銀二百八十四貫三百目、この金四千七百三十両余を差出す べしと定めた。さうしてその賦課の方法は役を出す町地を上・中・ 下三等に区分し、上は間口京間五間を、中は七間を、下は十間を それ\゛/一役とし、一役につき一年人足十五人宛を出すことと した。その後拝領屋敷に限り、その率を減じ、上は七間、中は十 間、下は二十間を以て一人役とし、更に元文四年(一七三九)人 足費を二割引とした。これにより上は間口一間に四匁八分、中は 三匁四分二厘八毛、下は二匁四分を出すこととなり、総計三千四 百八十三両三分余となつた。  かやうに公役は表間口を標準として課したが、町々では便宜上 地形の広狭を平均して二十坪を一公役小間と定めて徴収すること となつた。総計して公役小間十三万五千四百四十二間、町数は七 百二十八町といふことです。公役小間は他の費用を割当てる時に も標準として使用された。

 


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