Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.20/4.21修正

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その37

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (17)管理人註

大阪の消防 制度 江戸の消防 制度

今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜  江戸では勿論右の(三)に当るものはない。又三郷といふもの がないから(一)に匹敵するものもない。但し古町から差出す晦 日銭が町年寄役所に勤めてゐる手代の給料であるとすれば、それ が(一)に相当するものでせう。(二)の火消方人足賃は郷毎に 火消年番町といふものが計算し、節季毎にその郷の役高にあてゝ とります。消防制度は江戸も大阪も仲々込入つてゐますが、つま り大阪は全市を上町・北船場・南船場・西船場・天満の五区に分 ち、毎区に数箇の番組(合計二十一番組)を置き、番組毎に一番 手乃至五番手までの人足を備へ、その人足は両・波・井・川・滝               シルシカシラ の五印に平等に分れ、一印毎に印頭町を、また一番手毎に火消年 番町をきめ、いざ出火といふ場合には印頭町の町代、火消年番町 の町代が人足を指揮して消防に従事する。古くは区内の火事を区 内で消防する方針をとり、然も大抵一番手二番手の人足で事を治 め、余程の大火でなければ三番手以下を出さなかつた時代には、 一番手の人数が百五十人とか、二百人とか、可成多人数でしたが、 後には何区の火災でも三郷協力して消防に従事する、即ち毎印二 十人づゝの鳶人足を以て一番手とし、一番手から三番手まで計三 百人で火事場に臨むこととなりました。鳶人足の外若干名の纏人        ミヅハジキ 足・団扇人足・水弾人足などがゐた。それから江戸の消防組織は 大川以東を一番組から十番組までに分ち、いろは四十八組をこれ に分属し、また大川以西を南・中・北の三組に分ち、一組より十 六組までをこれに分属し、人足数は合計で一万三百五十九人でし た。消防区域は大組が単位で、肝煎名主がこれを担当し、小組は その組内の名主が年番でこれを指揮する。経費は火消小間といひ、 小間を標準として定めてあります。大阪の火事には町代、江戸の 火事には名主が出る。その外は大同小異といつて宜からう。消防 といつても主として可燃物を取片附けて延焼を防ぐ仕方でしたか ら、今日とは格段の相違です。



















でなく
、
誤植か。


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