Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.2

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その5

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  一 江 戸 (3)
管理人註

石山本願寺 豊臣秀吉の 大阪築城

 大阪は古くナニハといつて浪速・難波等の文字を充て、仁徳・ 孝徳・聖武三代の帝都であつた。然しそんな古い事はさし置き、 近代の大阪は明応五年(一四九六)九月に本願寺第八世の蓮如が、 今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜 い。その後証如(第十世)の時、石山は本願寺の本山となり、証 如の子顕如はこれに拠つて多年織田信長と戦を交へ、漸く天正八 年(一五八〇)朝廷の御周旋で和議が調ひ開城した。その節火災 が起つて三日三晩焼け続けたと信長記に見える。本願寺が石山を 本山にして約五十年間において、石山は三日三晩連続燃焼する程 の建築物、即ち伽藍と門前町家とを有する程発展したのである。 今の天満の青物市場はもと大阪城の附近にあつたといひ、また京    フナ 橋には鮒問屋といつて川魚問屋が古くあつたといふ。本願寺を中 心とし、その門前町は大いに繁昌したと見て間違はないと思ふ。  大阪は瀬戸内海を経て西国北国と連絡するに極めて肝要な地で ある。上古に大阪が繁栄したのは、朝鮮支那との交通線上、我か らいへば出発点、彼からいへば到着点であつたからである。都が 奈良から京都に移つた後、京都と大阪とを繋ぐ淀川には上下の船 舶が輻湊した。後世淀川本流の川口が塞がつて海上の交通中心は 兵庫に移り、更に堺に移つたとはいへ、淀川の一支流木津川には 小舶が自在に出入したのである。戦国時代に大阪本願寺の強かつ たのは、一面には教徒の信仰の力の強盛なるに拠らうが、他面に は大阪が海陸交通の便宜が多く、兵士食糧を自由に集め得たから で、信長が鉄船を造つて木津川を扼止してから、本願寺はすつか り閉息して開城を承諾した次第です。本願寺開城後、間もなく大 阪は信長の部将池田信輝の所領となつたが、天正十一年(一五八 三)五月秀吉は池田氏を美濃へ移して自ら大阪を領し、大土木を 起した。秀吉は池田氏を態々美濃へ移して大阪を自分の所領とし た。  秀吉は北国征伐から帰つてから非常な勢で大阪城及び市街の建 築に徒事した。耶蘇会教師ルイス・フロイス Louis Froez の報告 に、秀吉は天正十一年から日夜三万の人夫を使役し、工事の進む に従ひ、これを二倍し、三年以上を費して完成したとあります。 それから城外はどうかといふと、諸国城持の衆・大名・小名悉く 大阪に集り、人々を連ね、門戸を双べ、南の方天王寺・住吉・ 堺に至るまで三里余皆町屋となつたと、大村由己の「柴田退治記」 に見えてゐる。さうして同書の奥書に「于時天正十一年十一月吉 辰」とあるので、大阪城は勿論城下の町々まで、天正十一年十一 月に成就したやうに見えますが、如何に秀吉が神機妙算を運らし ても、大阪を領してから僅か半年位で、本城は勿論町々まで出来 上る訳はない。フロイスの報告にある方が事実だらうと考へます。 尚柴田退治記に大阪城は五畿内を以て外構と為し、彼の地の城主 を以て警固とするものなりといひ、大和には筒井順慶、和泉には 中村孫平次、何処には誰、彼処には誰と、場所と名前とを挙げて ゐますが、江戸が丁度これと同様で、関八州を以て外構となし、 東海道には箱根の関所を設け、山下の小田原には譜代の大久保氏 を、中山道には碓氷に関所を置き、山下の安中には同板倉氏を置 き、水戸には御三家の一人を、また忍・川越・佐倉・前橋等には 御家門又は譜代の大名を封じた。かう比較して見ると、秀吉が江 戸を居城として家康に勧め、家康が之を容れたことが能く了解せ られる。


ひさし





























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