Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.4.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その40

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第二 市 制 (20)管理人註

寛政三年の 町法改正 大阪の公役 町役合計高

 町入用が多くなればなる程、地代店賃が高くなり、借地借家人 の生活を脅かす。それを救済しようといふのが寛政三年(一七九 一)に実施せられた町法改正の趣意で、全く時の老中松平越前守 定信(楽翁公)の方寸から出た。定信が天明五年から寛政元年ま で五ケ年間の地代店賃惣上高及び町入用掛高を調査せしめた所、 町入用掛高一ケ年平均十五万五千百四十両余、地主共正手取金 三十万千七十両余となり、前者を細分すると、八万三千三百四十 四両定式臨時入用、七千二百十八両神事入用、五万八百八十一両 家守給金、一万三千七百二両家守店賃となつた。そこで定信は町 法を改正し、出来るだけ入用を節約し、剰し得た三万七千両を十 分し、その一を町入用の臨時手当、その二を地主の増手取金とし、 残る七分を毎年積立て、これに幕府より二回に下付した二万両を 加へ、右金額を以て一方には籾囲をなし、又一方には家屋敷を担 保として低利の貸付を行つた。有名な七分積立金とは即ちこれで ある。然し年を経るに従つて町入用が次第に増加し、天保十一年 (一八四〇)には十七万二千七百四十九両余に達した。  天明三・四・五三年間の大阪三郷公役は一ケ年平均銀七百八貫 八十一匁余、金に換算すると一万一千八百両余となります。同六年 にこれを五百六十八貫五百八匁余に減じ、寛政二年に再び四百三十 五貫目に減じてゐますのは、楽翁公の倹約令の結果です。然るに江 戸同様追々増加いたし、天保十一年には七百十二貫目となりました。 町役の方は総計は判然しませぬが、公役の三倍四倍時には五倍にな つてゐる。故に公役・町役・並びに公役同様の川浚冥加金を加へる と三口合計十万両内外で江戸の三分ノ二に当るでせう。

 
  


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