町入用が多くなればなる程、地代店賃が高くなり、借地借家人
の生活を脅かす。それを救済しようといふのが寛政三年(一七九
一)に実施せられた町法改正の趣意で、全く時の老中松平越前守
定信(楽翁公)の方寸から出た。定信が天明五年から寛政元年ま
で五ケ年間の地代店賃惣上リ高及び町入用掛リ高を調査せしめた所、
町入用掛リ高一ケ年平均十五万五千百四十両余、地主共正手取金
三十万千七十両余となり、前者を細分すると、八万三千三百四十
四両定式臨時入用、七千二百十八両神事入用、五万八百八十一両
家守給金、一万三千七百二両家守店賃となつた。そこで定信は町
法を改正し、出来るだけ入用を節約し、剰し得た三万七千両を十
分し、その一を町入用の臨時手当、その二を地主の増手取金とし、
残る七分を毎年積立て、これに幕府より二回に下付した二万両を
加へ、右金額を以て一方には籾囲をなし、又一方には家屋敷を担
保として低利の貸付を行つた。有名な七分積立金とは即ちこれで
ある。然し年を経るに従つて町入用が次第に増加し、天保十一年
(一八四〇)には十七万二千七百四十九両余に達した。
天明三・四・五三年間の大阪三郷公役は一ケ年平均銀七百八貫
八十一匁余、金に換算すると一万一千八百両余となります。同六年
にこれを五百六十八貫五百八匁余に減じ、寛政二年に再び四百三十
五貫目に減じてゐますのは、楽翁公の倹約令の結果です。然るに江
戸同様追々増加いたし、天保十一年には七百十二貫目となりました。
町役の方は総計は判然しませぬが、公役の三倍四倍時には五倍にな
つてゐる。故に公役・町役・並びに公役同様の川浚冥加金を加へる
と三口合計十万両内外で江戸の三分ノ二に当るでせう。
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