江阪両市道
路の比較
江戸の道路
の幅員
その修繕と
下水の疎通
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第三 市内の交通
一 道路
江戸の絵図と大阪の絵図とを対照すると、一見して江戸の道路
が放射線的であり、大阪の道路が縦横平行してゐるのに心付く。
大阪は最初に道路を作つてから家屋を建て、江戸は家屋が出来て
から道路を作つた風が見える。尤も江戸でも古く開けた本町通及
びその附近は町割が能く出来てゐるし、大阪でも新しく開けた野
田福島は道路が曲折してゐるが、概していへば大阪の町割が江戸
に比して整然としてゐることは否まれない。一つには城郭の位置、
二つには開市当時の歴史によつてかゝる相違を来たしたものであ
らう。
明暦の大火で江戸の市街は殆んど焼亡した。その復興に際し、
道路の幅員を極め、日本橋通は田舎間十間、本町通は京間七間、
その外或は五間或は六間とし、前前より田舎間の所は田舎間、京
間の所は京間にせよとある。これによつて見れば江戸中で最も広
シンミチ ロ ヂ
い道路も田舎間十間に過ぎなかつたのである。新道や路次に至つ
ては広狭は随意であつた。幅一間の路次を大路次といふから、普
通の路次はそれ以下であることいふまでも無い。
道路の修繕については明暦大火前約十年、即ち慶安元年(一五
四八)に始めてその規則が見えてゐる。「町中海道悪しき所え浅
草砂に海砂ませ、壱町之内高ひくなき様に中高に築可申事、并
ごみどろにて海道つき申間敷事」とある。浅草砂とは或は砂利を
いふのではないか、浅草から盛んに砂利を掘つたといひますから
小砂利を指して浅草砂といつたのではないかと思ひます。その次
の箇條に「下水并に表の溝滞なきやうに所々にてごみをさらひ上
ケ可申候、下水えごみあくた少も入申間敷候、若ごみあくた入候
はゞ可為曲事」とある。道路に面した両側の溝はよく疏通され、
さうして道路は中高であるとすれば、霖雨といへども泥濘となる
気遣がない。道路としての理想は今日でもこれ以上に出ますまい。
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慶安元年は
一六四八、
誤植か
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