Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その41

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  一 道路 (1)
管理人註

江阪両市道 路の比較 江戸の道路 の幅員 その修繕と 下水の疎通

  第三 市内の交通    一 道路  江戸の絵図と大阪の絵図とを対照すると、一見して江戸の道路 が放射線的であり、大阪の道路が縦横平行してゐるのに心付く。 大阪は最初に道路を作つてから家屋を建て、江戸は家屋が出来て から道路を作つた風が見える。尤も江戸でも古く開けた本町通及 びその附近は町割が能く出来てゐるし、大阪でも新しく開けた野 田福島は道路が曲折してゐるが、概していへば大阪の町割が江戸 に比して整然としてゐることは否まれない。一つには城郭の位置、 二つには開市当時の歴史によつてかゝる相違を来たしたものであ らう。  明暦の大火で江戸の市街は殆んど焼亡した。その復興に際し、 道路の幅員を極め、日本橋通は田舎間十間、本町通は京間七間、 その外或は五間或は六間とし、前前より田舎間の所は田舎間、京 間の所は京間にせよとある。これによつて見れば江戸中で最も広                      シンミチ  ロ ヂ い道路も田舎間十間に過ぎなかつたのである。新道や路次に至つ ては広狭は随意であつた。幅一間の路次を大路次といふから、普 通の路次はそれ以下であることいふまでも無い。  道路の修繕については明暦大火前約十年、即ち慶安元年(一五 四八)に始めてその規則が見えてゐる。「町中海道悪しき所え浅 草砂に海砂ませ、壱町之内高ひくなき様に中高に築可申事、并 ごみどろにて海道つき申間敷事」とある。浅草砂とは或は砂利を いふのではないか、浅草から盛んに砂利を掘つたといひますから 小砂利を指して浅草砂といつたのではないかと思ひます。その次 の箇條に「下水并に表の溝滞なきやうに所々にてごみをさらひ上 ケ可申候、下水えごみあくた少も入申間敷候、若ごみあくた入候 はゞ可曲事」とある。道路に面した両側の溝はよく疏通され、 さうして道路は中高であるとすれば、霖雨といへども泥濘となる 気遣がない。道路としての理想は今日でもこれ以上に出ますまい。

慶安元年は
一四八、
誤植か


















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