この外尚往来の邪魔となるものは馬・牛車の類である。それが
ため往来に牛馬を立置いてはならぬ、荷物をつける時は片脇へよ
せつけよ、馬一頭に必ず馬子一人をつけ、大八車地車には宰領を
つけよ、馬でも牛でもつゞけて通つてはならぬ、一つの車体を牛
二頭以上で続いて引いてはならぬなどと、細かい規則があります。
「四谷新宿馬の糞」といふ言葉の通り四谷通は殊に荷付馬が多く
通つたと見え、その連続行進と両側の町家前につなぐことを禁じ、
問屋の内庭なり、厩なりに引入れてから、馬荷の請渡をせよと命
じてゐます。享保元年の令に、馬・車・渡船などで誤つて人を殺
すことがあつても、従来は罪科は行はなかつたが、将来は誤つて
人を殺しても流罪に処し、事情によつては更に重い科に処すとあ
ります。伝手に申しますが、牛車は江戸では城普請の時に初めて
京都から輸入し、普請後も止まつて高輪に居たので、そこで高輪
牛町といふのがあります。
カ シ チ
河岸通の町家はその地先の河岸地を荷揚場とし、或はそこに土
蔵や納屋を作つて荷物置場に使用して居た。さういふ権利がある
から河岸通の町家は沽券状が高かつた。河岸地そのものは幕府の
所有地であることは、猶道路と同様であつたから、河岸地使用者
から相当の冥加金を取つて居た。尤も河岸地の建物内で普通の住
居のやうに火を焚くことは厳禁であり、また河岸地に薪なり炭な
タカヅミ
り荷物を置いても、高積といつて一間以上に高く積むことは厳禁
されて居た。これは失火とその蔓延とを恐れたために相違ない。
慶安元年の町触に河岸端に積む薪は一間より高く積んではならぬ、
若し一間より高く積んだら過料一貫文に処すとありますが、後に
は河岸地ばかりでなく、材木屋・炭屋・薪屋のある処は、牛込・
麹町・芝の山手でも町方与力同心の手で高積を取調べるやうにな
りました。これを高積改といひます。
高積を禁じたのみか、高層建築も亦許されない。町家の三階建
は慶応三年に至つて始めて許された。それから寛文八年(一六六
二)の令に道路を掘つて物を埋めてはならぬ、埋めた分は掘出し
てあとを平らにせよとある。一寸不思議に思はれますが、これは
その月の朔日・四日・六日とつゞけ様に三度大火があつて、道路
に家財を埋めたためでせう。兎に角道路に対しては平面的に取締
つたばかりでなく、立体的にも取締つてゐたので、考へて見れば
案外進歩したものです。
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