Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.9

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その43

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  一 道路 (3)
管理人註

馬・牛車 河岸地 高積

 この外尚往来の邪魔となるものは馬・牛車の類である。それが ため往来に牛馬を立置いてはならぬ、荷物をつける時は片脇へよ せつけよ、馬一頭に必ず馬子一人をつけ、大八車地車には宰領を つけよ、馬でも牛でもつゞけて通つてはならぬ、一つの車体を牛 二頭以上で続いて引いてはならぬなどと、細かい規則があります。 「四谷新宿馬の糞」といふ言葉の通り四谷通は殊に荷付馬が多く 通つたと見え、その連続行進と両側の町家前につなぐことを禁じ、 問屋の内庭なり、厩なりに引入れてから、馬荷の請渡をせよと命 じてゐます。享保元年の令に、馬・車・渡船などで誤つて人を殺 すことがあつても、従来は罪科は行はなかつたが、将来は誤つて 人を殺しても流罪に処し、事情によつては更に重い科に処すとあ ります。伝手に申しますが、牛車は江戸では城普請の時に初めて 京都から輸入し、普請後も止まつて高輪に居たので、そこで高輪 牛町といふのがあります。               カ シ チ  河岸通の町家はその地先の河岸地を荷揚場とし、或はそこに土 蔵や納屋を作つて荷物置場に使用して居た。さういふ権利がある から河岸通の町家は沽券状が高かつた。河岸地そのものは幕府の 所有地であることは、猶道路と同様であつたから、河岸地使用者 から相当の冥加金を取つて居た。尤も河岸地の建物内で普通の住 居のやうに火を焚くことは厳禁であり、また河岸地に薪なり炭な          タカヅミ り荷物を置いても、高積といつて一間以上に高く積むことは厳禁 されて居た。これは失火とその蔓延とを恐れたために相違ない。 慶安元年の町触に河岸端に積む薪は一間より高く積んではならぬ、 若し一間より高く積んだら過料一貫文に処すとありますが、後に は河岸地ばかりでなく、材木屋・炭屋・薪屋のある処は、牛込・ 麹町・芝の山手でも町方与力同心の手で高積を取調べるやうにな りました。これを高積改といひます。  高積を禁じたのみか、高層建築も亦許されない。町家の三階建 は慶応三年に至つて始めて許された。それから寛文八年(一六六 二)の令に道路を掘つて物を埋めてはならぬ、埋めた分は掘出し てあとを平らにせよとある。一寸不思議に思はれますが、これは その月の朔日・四日・六日とつゞけ様に三度大火があつて、道路 に家財を埋めたためでせう。兎に角道路に対しては平面的に取締 つたばかりでなく、立体的にも取締つてゐたので、考へて見れば 案外進歩したものです。

寛文八年は
1668












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