Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その44

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  一 道路 (4)
管理人註

道奉行

 道路のことは道奉行が支配した。道奉行の定員は古くは四人で あつたが、享保五年二人に減ぜられ、目付役中より兼勤し、従来 附属してゐた二十人の同心も廃止となつた。道奉行と町奉行との 権限が甚だ曖昧であつたことは延享元年(一七四四)に町々名主 から町年寄樽屋へ届出でた書面に、  (一)道造り之事 古来は願ひ申さず、近来ほ両願。  (二)町内番屋并木戸新規普請の事 古来は町奉行願、近来は    両願。  (三)有来木戸番屋普請の事 古来は願ひ申さず、近来は町奉    行へ顕ひ、或は道奉行へ願ふもある。  (四)普請の内店前に土置場・板囲・出小屋の事 先規は町年    寄届、近年は道奉行へ願ひ、或は町奉行へ願ふもある。  (五)往還にある下水落樋枡新規修繕之事 先年は願ひ申さず、    近年道奉行願。  (六)雛甲商人の小屋掛・看板柱建・日除・紺屋張物・薪類積    出之事 以前は願ひ申さず、近年道奉行へ願出づる町々も    ある。 と見え、最後に「聢と古来の書留も御座なく、勿論当時御願方之 義、町々不同に御座候。此上自然と間違之儀も可御座哉と迷 惑至極に奉存、何卒両御願之儀相止、古来之通被仰渡下候得 ば難有奉存候」とあるので証明せられる。明和五年(一七六八) 九月上水方道方の儀は普請奉行の掛になり、町方にかゝる道路は 皆町方に引継いだけれど、尚或る場合には普請方へ届出づる必要 があつた。

 


「江戸と大阪」目次/その43/その45

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