道路のことは道奉行が支配した。道奉行の定員は古くは四人で
あつたが、享保五年二人に減ぜられ、目付役中より兼勤し、従来
附属してゐた二十人の同心も廃止となつた。道奉行と町奉行との
権限が甚だ曖昧であつたことは延享元年(一七四四)に町々名主
から町年寄樽屋へ届出でた書面に、
(一)道造り之事 古来は願ひ申さず、近来ほ両願。
(二)町内番屋并木戸新規普請の事 古来は町奉行願、近来は
両願。
(三)有来木戸番屋普請の事 古来は願ひ申さず、近来は町奉
行へ顕ひ、或は道奉行へ願ふもある。
(四)普請の内店前に土置場・板囲・出小屋の事 先規は町年
寄届、近年は道奉行へ願ひ、或は町奉行へ願ふもある。
(五)往還にある下水落樋枡新規修繕之事 先年は願ひ申さず、
近年道奉行願。
(六)雛甲商人の小屋掛・看板柱建・日除・紺屋張物・薪類積
出之事 以前は願ひ申さず、近年道奉行へ願出づる町々も
ある。
と見え、最後に「聢と古来の書留も御座なく、勿論当時御願方之
義、町々不同に御座候。此上自然と間違之儀も可有御座哉と迷
惑至極に奉存、何卒両御願之儀相止、古来之通被仰渡被下候得
ば難有奉存候」とあるので証明せられる。明和五年(一七六八)
九月上水方道方の儀は普請奉行の掛になり、町方にかゝる道路は
皆町方に引継いだけれど、尚或る場合には普請方へ届出づる必要
があつた。
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