Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.11

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その45

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  一 道路 (5)
管理人註

通と筋 大阪の道路 の延長と幅 員 道路の取締

今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜     トホリ  江戸で通といふのは単に大道路の意味で方角に関係はない。日 本橋の通一丁目から四丁目までは南北に通じ、本町通は東西に通 じてゐる。大阪ではこれに反し通と筋とを区別し、南北を筋、東 西を通といつてゐるが、元来通・筋の文字に方角の意味がある訳 ではないから、民間の慣用に過ぎないのであらう。  元禄年間の調査に大阪の道路の延長を記して合計千三百三十七 町半七間一尺七寸とし(この一間は六尺五寸)、内最も長い町筋 を(一)谷町筋(二)天神橋筋(三)堺筋(四)京橋筋(五)高 麗橋筋(六)久宝寺橋筋(七)天満浜側筋の七つとし、それ\゛/ 間数が拳げてあるが、高麗橋筋が一番短くて二十九町四十二間余、 天神橋筋が一番長くて五十九町四十三間余とあります。かやうな 数字がありながら、町幅を一つも書いて居らぬのは不審です。浜 側大道幅数七十五、五町半二十六間一尺九寸といふ数字から平均 して見ると、浜側の道幅すら平均五間にたらない。今日は道路拡 張で広い分もあるが、一体に大阪の道路は狭隘である。心斎橋通 の如きは、夏になると両側の商店の屋根から屋根へ日覆をかけて、 道路全体を日蔭にしてゐる始末です。大阪の旧時の町幅は広くて 三間乃至五間と認めます。   【大阪市中家造之図 略】  道路取締令の一番古いのは慶安二年(一六四九)で、江戸に比 べて一年遅れてゐる。町中の道の悪い所ほ造り直せ、町中大道へ      ・ ・ ・ 両側よりおだれを出して道幅を狭くしてはならぬといつて居る。 おだれは上方言葉で孫庇また二重庇を指します。それから寛文年 間になると取締が一層精細になり、往来へ家を建て出してほなら ぬ、おだれに壁をつけて本宅へ取込んではならぬ、建築前地形を する時、町並を見合はせ、脇々に難儀をかけざるやうにせよ、浜 側の納屋に壁をつけてほならぬ、材木屋町はいふに及ばず大道を 狭ばめる商人のある町町は、馬乗物が自由に行き通ふやう九尺以 上道をあけよ、芦萱の類を九尺より高く積んではならぬと令して ゐる。高積のことは江戸にもあつたが、その他の規定も江戸と大 差は無い。  江戸の道造組合に相当するものが大阪にあつたか。あつたにし ても勿論町町の組合で武家は入つてゐない。大阪の道路には割合 に多く石を使用してあるから修繕をする機会も少かつたらう。町々 に木戸番屋はあつても、往来に飛出した自身番屋もなければ辻番                              所もない。荷付馬はあつても乗馬で往来する武士はゐず、車はべ か車といつて大八より小さい。道路交通の取締は諸事大阪の方が 簡易であつたと思はれる。

 


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