今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜
トホリ
江戸で通といふのは単に大道路の意味で方角に関係はない。日
本橋の通一丁目から四丁目までは南北に通じ、本町通は東西に通
じてゐる。大阪ではこれに反し通と筋とを区別し、南北を筋、東
西を通といつてゐるが、元来通・筋の文字に方角の意味がある訳
ではないから、民間の慣用に過ぎないのであらう。
元禄年間の調査に大阪の道路の延長を記して合計千三百三十七
町半七間一尺七寸とし(この一間は六尺五寸)、内最も長い町筋
を(一)谷町筋(二)天神橋筋(三)堺筋(四)京橋筋(五)高
麗橋筋(六)久宝寺橋筋(七)天満浜側筋の七つとし、それ\゛/
間数が拳げてあるが、高麗橋筋が一番短くて二十九町四十二間余、
天神橋筋が一番長くて五十九町四十三間余とあります。かやうな
数字がありながら、町幅を一つも書いて居らぬのは不審です。浜
側大道幅数七十五、五町半二十六間一尺九寸といふ数字から平均
して見ると、浜側の道幅すら平均五間にたらない。今日は道路拡
張で広い分もあるが、一体に大阪の道路は狭隘である。心斎橋通
の如きは、夏になると両側の商店の屋根から屋根へ日覆をかけて、
道路全体を日蔭にしてゐる始末です。大阪の旧時の町幅は広くて
三間乃至五間と認めます。
【大阪市中家造之図 略】
道路取締令の一番古いのは慶安二年(一六四九)で、江戸に比
べて一年遅れてゐる。町中の道の悪い所ほ造り直せ、町中大道へ
・ ・ ・
両側よりおだれを出して道幅を狭くしてはならぬといつて居る。
おだれは上方言葉で孫庇また二重庇を指します。それから寛文年
間になると取締が一層精細になり、往来へ家を建て出してほなら
ぬ、おだれに壁をつけて本宅へ取込んではならぬ、建築前地形を
する時、町並を見合はせ、脇々に難儀をかけざるやうにせよ、浜
側の納屋に壁をつけてほならぬ、材木屋町はいふに及ばず大道を
狭ばめる商人のある町町は、馬乗物が自由に行き通ふやう九尺以
上道をあけよ、芦萱の類を九尺より高く積んではならぬと令して
ゐる。高積のことは江戸にもあつたが、その他の規定も江戸と大
差は無い。
江戸の道造組合に相当するものが大阪にあつたか。あつたにし
ても勿論町町の組合で武家は入つてゐない。大阪の道路には割合
に多く石を使用してあるから修繕をする機会も少かつたらう。町々
に木戸番屋はあつても、往来に飛出した自身番屋もなければ辻番
・
所もない。荷付馬はあつても乗馬で往来する武士はゐず、車はべ
・
か車といつて大八より小さい。道路交通の取締は諸事大阪の方が
簡易であつたと思はれる。
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