Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その46

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  一 道路 (6)
管理人註

江戸の御入 用橋 四大橋の創 設 架替費用 橋銭 三橋会所

 江戸は町数の多きを誇り、大阪は橋数の多きを誇つて居るが、 江戸の橋の数は決して少くない。橋梁の普請は、道路同様、幕府 でするものと民間でするものとに分れ、後者には一手持と組合持 とがある。  官費に属するものは、(一)城の内外に架するもの四五十條 (二)両国橋(三)新大橋・永代橋・大川橋(今の吾妻橋)(四) 日本橋を始め町々に架するもの凡そ百二十余條、総称して御入用 橋といふ。(一)に属するものには下乗橋・大手橋・和田倉橋・ 鍛冶橋・呉服橋・常盤橋・筋達橋・浅草橋等がある。(二)の両 国橋は寛文元年(一六六一)、(三)に属する新大橋は元禄六年 (一六九二)、永代橋は同十一年(一六九八)、大川橋は安永三 年(一七七四)に出来てゐる。いづれも本所深川との交通の便を 計つて追々に出来たのである。就中真先に架けられた両国橋は、 万治三年(一六六〇)から普請にかかり、翌寛文元年に出来、幅 四間、長さ九十四間、初めて両国橋と唱ふとあるから、この以前 は渡船によつて僅に往来したに相違ない。この時の費用は判明し ないが、それから二十年ばかり経つて架替へた時に二千八百九十 三両を費し、材木はすべて官から下付したとある。新大橋が出来 た時は二千三百四十三両を要し、材木は官から下付した。それか ら大川橋は二千三百七十一両を費し、また文化五年に永代橋架替 の時は四千三百両を要したとある。幕末で物価も騰貴したからで あらうが、まづ四大橋の架換には三千両乃至四千両を要したもの と見て大過ないであらう。  大川橋架設の出願者は浅草花川戸町家主伊右衛門及び下谷龍泉 寺町家主源八両名です。私費で大川橋を架設し、武家を除き、往 来のものから二文づゝを徴し、それを以て永々架替修繕を行ひ、 尚六年目より金五十両の冥加金を差上げるといふ趣旨です。この 出願について色々取調があつた所、若し大川を架けた後に、出水 のために橋が壊れ、橋材が下流の両国橋に衝当つてこれを損傷す る時は如何に弁償するかといふ厄介な問題を生じたが、さういふ 場合の弁償金の規定が出来た後、安永三年に至り漸く許可となつ た。それから新大橋も永代橋も安永以前から橋銭を取つてゐた。 幕府では両橋の修繕費が莫大である所から之を取払はうとした時、 両橋の存在によつて最も便宜を被る橋詰町々から、橋付東西の広 小路を賜ふこと及び橋銭を取ることの二項を條件とし、両橋の永 続を引請けたいと願出で、永代橋は享保四年深川佐賀町外六ケ町、 新大橋は延享元年海辺町外四ケ町の受持となつた。然るに文化四 年(一八〇七)深川八幡の祭礼の日、非常な雑踏で永代橋が折れ て多数の死傷者を出した。それで永代・新大橋・大川の三橋を民 間にまかせて置いてはならぬといふ議論が段々出て来た。その節 古来菱垣廻船で大阪から荷物を引請けてゐた江戸の十組問屋が株 仲間免許を願出で、冥加金一万二百両を上納すると申立てた。但 し右冥加金は暫く貸下を乞ひ、これを三橋会所なるものの元金に 組入れて貸附を営み、その利子を以て三橋の修繕を致したいと願 出た。文化六年(一八〇九)のことで、それが許可になつてから 橋銭といふことはなくなつた。併し後に三橋会所に不都合があつ て止められてから、町年寄の手で冥加金の中から経費を支出した が、天保改革の時に十組問屋は解散を命ぜられ、冥加金上納は中 止となつた。それからは町方の附属地助成地の地代で三橋の修繕 をした。毎年七百二十四両の予定額ですが、これは修繕費で、架 替費は町会所の積金から支出した。かくして維新に及んだのであ る。



















元禄六年は
一六九


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