橋上の出商及びべか車の橋上通過を禁じて居る点は江戸と同様
である。大阪の橋々は割合にカーヴが強い。往来が頻繁で度々修
繕費を出すのがつらいから態とさう造つたといふ説もありますが、
一面からいへば大阪は水面と道路面との差が少いから、川船の往
来の便宜を計つたためと解すべきでせう。
陸上の交通機関としては馬・牛・車・駕龍を数へる。大阪は道
路が狭い為か、牛車といふものを聞いたことがない。江戸では馬
や牛車で往来を妨げぬやうにとの触書は再三出てゐます。武家は
馬に乗るのが当然であるが、平民はこれに乗つてはならぬ。況ん
や馬子が馬に乗るのは大いに不都合であるとして市中では禁止せ
られてゐます。また馬や牛車に嵩高な荷物を附けてはならぬ、牛
馬の痛にならぬやうにせよといふ法令には、動物愛護の精神が見
える。五代将軍綱吉は迷信からではありますが、盛んに生類憐憫
を実行した。
車には地車と大八車とがある。地車は車体低く、車輪が四つあ
る。多くは牛に引かせた。火事の節地車や大八車に荷物を載せて
引いてはならぬといふ禁令は、避難者の迷惑を慮つたためでせう。
大八車は八人の代りをするから代八で、それが大八となつたとい
ふのは信じられない。明暦の火災後、方々に築地が出来た時に、
大八といふ者が土を運ぶ車を作り出したといふ説もある。発明者
の名によつて大八車といつたのであらう。車を引くものは凡て草
鞋を履き蓑笠で往来すべきものとされてゐる。
【べか車と大八車 略】
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