Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その50

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  一 道路 (10)
管理人註

乗物駕籠 

 町人は徒歩するのが通例である。寛文二年(一六六二)の江戸              ノリモノ の触書に、近頃無断で町人が乗物に乗つたり、若い者が乗るとい ふ噂がある。行先で病気になり、止むを得ず乗物で帰つたら、当 日またはその翌口、親類でも宜いから御番所へ参り、その段を帳 面に附けよとある。今日からは想像も及ばぬ程喧しい。然らば乗 物にのることの出来るものは何人かといへば、五十歳以上の男子・ 病人・女・小児・医師・僧侶位に限られてゐる。その後十数年を 経た延宝二年(一六七四)に断なくして駕籠に乗る者は本人は勿 論、駕籠の持主、かご舁まで皆処罰すると令して居る位です。  単に乗物と書く場合もあれば、乗物駕籠と続け、或は乗物・駕 籠・あんだと続けて書く場合もある。駕籠もあんだも乗物に相違 ないが、並べていふ時は乗物は武家・僧侶・医師等の乗る裾の拡 がつた上等な駕籠、駕籠といへば裾の狭い下等な駕籠の意味に用 ひられた。あんだはもと戦争の際負傷者を運ぶために使用した極 めて簡単な乗物の名で、板を台とし竹で釣つてある。後世は下等 の駕籠をあんだといつたらしい。  天和元年(一六八一)に至り、町人一切乗物に乗るべからず、 止むを得なければ駕籠に乗れといつて、駕籠の作り方を示してゐ る。勿論駕籠がこの時に出来た訳ではないでせうが、駕籠の大き さや装飾が定まつたのである。その節の申渡中に貸駕籠に乗るな といふ一項があるから、篤籠は最初は自家用ばかりであつたので あらう。それが元禄十三年になつて貸駕籠を許し、極老・病人・ 女・小児・医師・出家・盲人だけこれに乗ることを許され、大八 車と共に極印を受け、一ケ月に若干の税を納めることとなつたが、 税を納めることはその後数年で止んでゐます。兎に角貸駕籠を許 した意味が意味ですから、貸駕籠へ乗つて傾城町へ行くことは出 来なかつたのです。然し実際は傾城町へ行く駕籠が一番早くて、 懸声をかけて飛ぶやうであつた。駕籠の数も三百挺と限られてあ つたが、享保十一年から数に構なしとなつた。但し敷居鴨居をつ けてはならぬと命じてゐる。敷居鴨居をつけたのは引戸駕籠とい つて上の部、普通の駕籠はたれ駕籠といつて簾をかけ、平民の乗 用したものです。  大阪では駕籠舁に関する綻書が古く寛文元年(一六五九)に三 ケ條あるが、これは大阪から堺へ行くとか、枚方へ行くとか、市 外へ出る駕籠の取締で、市内の分では無い。大阪そのものが江戸 のやうに広くないから市内では余り使用せられなかつたのであら う。

用は
用か

寛文元年は
一六六一







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