家康が江戸に入つた頃、江戸城の有様は甚だ荒涼たるものであ
つた。北條氏の家来の遠山氏が城代をしてゐたが、久しく手入れ
もしなかつたため、トリ葺(薄板を並べ石又は丸太にて押ふ)の
屋根は腐つて雨が漏り、玄関には式台なく、船板の幅の広いのが
二段重ねてあり、城壁といつても石垣は一ケ所もなく、皆土手で、
その上に竹木が生茂り、また海岸へ出入する所には四五の木戸門
があり、その中一番大きい扉なしの小田原御門は、後の外桜田門
の位置にあつた。従来家康入府当時の唯一の記録として「天正日
記」といふものが大層珍重された。これは信州高遠藩祖内藤清成
の筆録する所といはれ、文章も素朴で如何にも実録らしく、小宮
山綏介氏の如きは枚註を加へてわざ\/出版せられた程です。然
し新しい研究によると偽書だといふことで、偽書だとなればいく
らよく出来てゐても使用する訳には行かない。従つて家康入府当
時の江戸に就いて吾人の知る所は極めて少い。兎に角家康は荒涼
たる江戸城に入り、応急の修理を加へたでせうが、間もなく朝鮮
役が起り、家康は肥前の名護屋に在陣することとなり、従つて留
守中の江戸は差したる進歩を見なかつたやうです。
秀吉の薨去により朝鮮在陣の諸将は引揚げたが、それから満二
年立つか立たぬ中に関ケ原の役があつて、天下の形勢が一変し、
海内の実権は徳川氏の掌中に帰し、家康は慶長八年(一六〇三)
二月を以て征夷大将軍に任ぜられた。こゝで一大問題が起つた。
即ち徳川氏は引続き関東に居り、江戸を中心として天下の政治を
行ふべきか、或は上方に移り、上方から海内を支配すべきか、と
いふ問題で、いづれにか解決せねばならぬ時機に到達した。この
場合において頼朝を手本とした家康は、上方に幕府を置いた足利
氏の先を襲ふことを避け、引続き江戸に居ることに決した。従
来関東八州の政治的中心であつた江戸は、今や名実共に日本全図
の政治的中心となつた。
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