馬については寛永二年(一六二五)に馬方組年寄御伝馬年寄及
び馬指が連判で上つた手形及び駄賃定書が残つてゐる。手形の方
は主として道中に関した規定であるが、その一項に「馬方共町中
から馬に乗候はゞ馬を可 被 召上 候事」とある。江戸と同様とい
ふべしだ。駄賃定書の一項に駄賃馬が不自由だとて人足を雇ひ、
荷物を運ばせる際、馬士共それを押収妨害せば、聞付次第曲事に
ナカシ
処すとある。これで見ると馬方と人夫即ち仲仕との争は古くから
あつたものである。大阪は大小の川々が縦横してゐる。荷主の住
宅は水揚場を去ること遠くないから、馬方に依頼するよりも仲仕
に依頼する方が便利である。それで仲仕の人員が殖えて仕事が繁
昌すると反対に、馬方の方は手隙きになる。それでは伝馬役がつ
とまらぬといつて延享元年(一七四四)馬借仲間から愁訴に及ん
だ。大阪の伝馬番所は備前島町にあり、年寄一人惣代三人出勤し、
駄賃馬四百八十八頭と元締の調査にありますが、委しいことは分
りません。幕府で米金の補助があるに拘はらず、各地の伝馬所が
経営困難であつたのは事実です。然し延享の出願に対し、その時
の町奉行は荷物持運は遠近共荷主の心次第として、別段馬方に保
護を与へなかつたが、宝暦七年(一七五七)二度目の歎願に対し、
町奉行も大いに考慮を加へ、荷物運搬は手人を使用するも、仲仕
に持たせるも、荷主の随意であるが、俵物箇物類はなるべく馬子
を以て運搬せよ、水揚浜出荷物とも浜々を距ること遠きものは必
ず馬の背によれと沙汰し、宝暦明和両度同様の令を下してゐます。
天明五年(一七八六)伝馬所愈々困窮になつたので、浜出荷物
ウマヨケヨナイ
馬除余内銀を得たいと出願した。余内銀は補助銀の意味です。荷
主が自分の都合で荷物を馬に附けない時、その賠償金を荷主から
得たいといふ意味でせう。町奉行所はこれを許し、その請渡は伝
馬方と荷主とで相対せよと命じてゐます。委細は残念ながら分り
ません。然し畢竟伝馬所の困窮が原因で、伝馬所の困窮はまた馬
子の不法乱暴となり、駄賃を規定以外にとつたり、荷主の意 を
無視して強ひて荷物を馬に横取つたりすることが止まなかつた。
寛政二年(一七九〇)馬子並びに伝馬役人を罰し、その旨を町々
へ知らすと同時に、馬に積んで別段障りにならぬ荷物は、なるべ
く馬につけよと諭し、毎年銀十七貫目を余内銀として伝馬所に差
遣はすことゝなりました。
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