Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.5.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その51

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  一 道路 (11)
管理人註

馬方と仲仕 仲仕 伝馬所の困 窮 余内銀

 馬については寛永二年(一六二五)に馬方組年寄御伝馬年寄及 び馬指が連判で上つた手形及び駄賃定書が残つてゐる。手形の方 は主として道中に関した規定であるが、その一項に「馬方共町中 から馬に乗候はゞ馬を可召上候事」とある。江戸と同様とい ふべしだ。駄賃定書の一項に駄賃馬が不自由だとて人足を雇ひ、 荷物を運ばせる際、馬士共それを押収妨害せば、聞付次第曲事に                    ナカシ 処すとある。これで見ると馬方と人夫即ち仲仕との争は古くから あつたものである。大阪は大小の川々が縦横してゐる。荷主の住 宅は水揚場を去ること遠くないから、馬方に依頼するよりも仲仕 に依頼する方が便利である。それで仲仕の人員が殖えて仕事が繁 昌すると反対に、馬方の方は手隙きになる。それでは伝馬役がつ とまらぬといつて延享元年(一七四四)馬借仲間から愁訴に及ん だ。大阪の伝馬番所は備前島町にあり、年寄一人惣代三人出勤し、 駄賃馬四百八十八頭と元締の調査にありますが、委しいことは分 りません。幕府で米金の補助があるに拘はらず、各地の伝馬所が 経営困難であつたのは事実です。然し延享の出願に対し、その時 の町奉行は荷物持運は遠近共荷主の心次第として、別段馬方に保 護を与へなかつたが、宝暦七年(一七五七)二度目の歎願に対し、 町奉行も大いに考慮を加へ、荷物運搬は手人を使用するも、仲仕 に持たせるも、荷主の随意であるが、俵物箇物類はなるべく馬子 を以て運搬せよ、水揚浜出荷物とも浜々を距ること遠きものは必 ず馬の背によれと沙汰し、宝暦明和両度同様の令を下してゐます。  天明五年(一七八六)伝馬所愈々困窮になつたので、浜出荷物 ウマヨケヨナイ 馬除余内銀を得たいと出願した。余内銀は補助銀の意味です。荷 主が自分の都合で荷物を馬に附けない時、その賠償金を荷主から 得たいといふ意味でせう。町奉行所はこれを許し、その請渡は伝 馬方と荷主とで相対せよと命じてゐます。委細は残念ながら分り ません。然し畢竟伝馬所の困窮が原因で、伝馬所の困窮はまた馬 子の不法乱暴となり、駄賃を規定以外にとつたり、荷主の意を 無視して強ひて荷物を馬に横取つたりすることが止まなかつた。 寛政二年(一七九〇)馬子並びに伝馬役人を罰し、その旨を町々 へ知らすと同時に、馬に積んで別段障りにならぬ荷物は、なるべ く馬につけよと諭し、毎年銀十七貫目を余内銀として伝馬所に差 遣はすことゝなりました。

天明五年は
一七八




















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