Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.1

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その53

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  二 川 筋 (1)
管理人註

江戸の川筋 取締 定浚 臨時浚 石銭

   二 川 筋  川筋の取締については明暦元年(一六五五)十二月に四通の制 札が、(一)銭瓶橋神田橋(二)内御堀(三)江戸橋横堀(四) 永代浦に立てられた。(一)(二)(三)は大体同様の文句です。 船から荷物を揚げる時、船を石垣の際に着け、塵芥の川筋に落ち ぬやうにせよ、荷揚の輩は屹度その跡掃除をなせ、大船の荷物は 出入三日にて取揚げ、小船は翌日を限る、明船を久しく繋置いて はならぬ、荷揚を済まさば早速立戻れ、荷物を永々舟場に積置く こと無用、船から塵芥を捨てる所を永代浦と定めたから途中で捨 てゝはならぬ、夜間船を動かすべからずといふ意味のもので、 (四)の永代浦の制札はこゝへ塵芥を捨てよといふだけです。  塵芥を川筋へ捨てることについては爾来幾度となく取締令が出 てゐる。殊に盆の聖霊棚の道具を御堀や川筋へ捨てゝはならぬ、 聖霊棚の燈籠の火を無沙汰にして火事を出してはならぬといふ二 ケ條は毎年定まつて出てゐる。勿論これは水行を妨げる恐がある からである。それから河岸地に勝手に建物をつき出すことを禁じ てゐるのは、丁度庇の下に柱をつけて道路を取込み、往来の妨を なすと同様、水面を狭め舟行を妨げるからでせう。  川浚には定浚と臨時浚との二つがある。寛延三年(一七五〇) 神田川(牛込御門下より大川口まで)の定浚は永代橋掛町深川佐 賀町外六ケ町で、江戸川(船河原橋より大洗堰まで)の定浚は新 大橋掛町海辺町外四ケ町で引請けました。これは他から右両川の 川浚をするから永代橋と新大橋とを永々下されたいといふ願が出 たので、今迄両橋の掛町であつた町々で両川浚を引請けることに なつたのです。尤も江戸川浚の助成地としては新大橋東方広小路 を町屋とし、また本所相生町に町屋敷二ケ所を下付し、神田川浚 助成地としては本所相生町に二ケ所、芝口一丁目に一ケ所に地面 を下付されました。  文化九年(一八一二)に本所竪川の定浚を板材木類炭薪諸組問 屋に、又江戸橋から東へ大川出口までの定浚を土船乗土商渡世の 者に請負はせた。竪川の方は一ケ年晴天二百日と見積り、一日船 十艘づゝ、即ち一ケ年に船二千艘を出して、江戸橋大川出口間は 一日に船三艘づゝ一ケ年に六百艘を出して、御差図次第浚ふとい ふ約束です。それから一石橋から江戸橋迄は石問屋で定浚を行つ たと申します。  かやうに大川筋の枝川については少々の史料があるが、肝要の 大川についての史料は殆ど見付からない。享和二年の触書に「去 酉年大川通御船蔵前及び本所深川筋川々浚御普請有*之、水行宜、 通船の差支も無*之」とある。酉年は寛政十二年(一八〇〇)に当 り、さうして御普請といふから公儀の費用で川浚を施したと思は                            ナカズ れます。勿論臨時の工事でせう。寛政以前、即ち田沼時代に中洲 を築立て、そこに茶屋を建てゝ頗る繁昌した。中洲雀といふ酒落 本さへある位ですが、それらから考へると大川は自然に任せて臨 時に浚渫を行つた位ではなかつたか。  大川の海へ注ぐ所には廻船が集まる。その澪筋を浚ふために、 入津する廻船の石高に応じて銭を課したことがある。これを石銭 といふ。然し宝永四年(一七〇七)から七年まで足掛四年間だけ でした。

 


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