大阪では川筋に関する取締は道路の分と共に慶安二年に見えて
ゐる。下水道は屡々浚渫せよ、塵芥を棄てるものあらば町中に過
銭を課する、川筋沿岸に畠を作り又は家を建てゝ商売を営んでは
ならぬ、橋上より塵芥を投ずる者あらば、橋詰両町で捕縛の上、
出訴せよといつてゐる。その後段々條項を増加訂正して宝暦四年
(一七五四)川筋掟十二ケ條を大成した。爾来町奉行新任の年ま
たはその翌年を以て必ず本命を発布することゝなり、幕末に至る
まで一向変らなかつた。
ガンギ
川筋掟の第九條に「浜側町境の外、納屋境に垣を結んで岸岐水
ナダレ
際に至らしめ、水汲場に猥に板を渡し、また流垂形に作物を為す
べからず」といひ、第十條に「浜側納屋下を囲ひ、或は非人小屋
を掛けて火を焚くあり、速に取払ひ、非人を放逐せよ」とある。
大阪の川筋につき特に注意すべきことは流垂形と岸岐とである。
川岸が斜に開いてゐるから河水が増してもこれを受ける余裕があ
るから容易に溢れない。殊に岸岐は平日は昇降に便利である。岸
岐は両岸を斜に石畳にしたもので、貞享元年(一六八四)町奉行
藤堂伊勢守良直の命によつて作り、縦横合計二万八千六間五尺に
及んだといふ。尤も之が最初であるかどうかは不明である。
川沿の地を江戸では河岸地、大阪では浜地といふが、そこに建
てた納屋を住居地即ち火焚所とすることは厳禁であつた。宝暦七
年から浜地冥加銀を納めしめた。総額銀三百六貫目余で、その徴
アシダ
収及び上納は惣年寄の手で取扱つた。浜側に作る納屋は必ず足駄
ヅクリ
作といつて下を囲ふことを許さない。これも河水をさへぎらぬや
うとの工夫から出てゐる。乞食を追払ふのは火の用心のためであ
る。
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