Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その55

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  二 川 筋 (4)
管理人註

川浚 その費用の 出所 川浚冥加金 天保の大浚

今大阪城のある地点に石山別院を置いた時から始まるといつて宜  大阪の川浚は三つに分れる。大川浚・内川浚・両川口浚であつ て、大川といへば淀川本流、内川といへばそれから分れた市内の 川々、両川口といへば安治川口木津川口のことです。川浚の費用 は三者何れもその出所を異にしてゐる。大川浚は堂島新地の地子 銀、内川浚は堀江上荷船の船床銀、両川口浚は入津の船舶から一 石に銭三文(石銭といふ)を徴してこれを行つた。然るに安永元 年に至りこの制を一変し、堀江上荷船の船床銀と、家質差配所の 冥加金の一部と、十川築地地代銀貸付利子の三つを合併して、一 年分の川浚の費用に充てることゝした。家質差配所のことは既に 前に述べたが、その冥加金の中から九百十両を出す。堀江上荷船 船床銀といふのは元禄十一年に堀江新地発展のために許した上荷 船五百艘の冥加銀で、合計六十四貫二百目あるが、取集料として 上荷船仲間に二貫目を与へるから、正味は六十二貫二百目であつ た。また十川築地地代銀といふのは明和四年(一七六七)曾根崎 川江戸堀川その外の川筋に沿うて築地をした。その売払代銀を貸 付けて、それから生ずる利銀が八十貫五百九十六匁八分ある。以 上三口を合し、総計百九十七貫三百九十六匁八分を以て川浚を施 したのです。然しながら家質差配所は何分不評判であるので、最 初はその冥加金から川浚費の一部を出し、次ぎに全部(四千九百 両)を出し、更に一歩を進めて家質差配所を廃し、その冥加金九 千九百五十両を川浚冥加金の名目を以て取立てることゝした(安 永四年)。然しながら事実は川浚冥加金の全額を川浚費に使つた のではなく、大体その半分で、九條村の仁左衛門なる者が請負人 となつて川浚を行つた。併し享和文化頃には両川口が詰り、廻船 は兵庫や西ノ宮に碇泊するやうになり、大阪にとつては商売上甚 だ面白からぬ形勢となつた。その上幕府に江州の勢多川筋を浚つ て新田を起すといふ計画があつて、天保元年(一八三一)大阪町 奉行へ諮問があつた。それでは琵琶湖の水が多量に放出され、下 流殊に大阪に土砂が溜るであらうといふ心配で、時の町奉行新見 伊賀守正路が彼是心配し、結局幕府から銀六百貫目を支出し、そ れに大阪市民の寄附銀二千三百五十七貫目余を加へ、天保二年三 年に亙つて両川口・大川・内川の大浚を行ふことゝなつた。大阪      ・ ・ は一つはずむと大騒ぎになる。大阪ばかりでなく日本全体の風で あらうが、大阪は殊に甚だしく感ずる。神社の正遷宮でも一つは                    スナモチ ずむと老若男女みんな足袋はだしになつて砂持をやる。伊賀守の    アマ 采配が甘かつたと見え、天保の大浚は御救御浚即ち大阪の衰微を 救済する川浚と解釈せられ、非常な人気で、町々隊を組み、幟を 立て、鳴物入で競つて土砂を運搬した。余り騒ぎが烈しくて終に は町奉行所から制止を加へた程で、その時の土砂を積んだ山を天 保山といひ、幕末こゝに砲台を築いた。

天保元年は
一八三























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