Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.5

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その57

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  二 川 筋 (5)
管理人註

地方役と川 奉行 川船奉行 極印 年貢

 慶応元年になつて川浚冥加金は免除となりました。十四代家茂 将軍が長州征伐のため来阪し、麾下の人々が町々に分宿する。嘸 かし町々の迷惑であらうといふ意味合から、冥加金を免除したの で、川浚を要しなくなつたからではありません。それ故明治元年 にはまた川浚冥加金を出させて居ます。  以上述べた中、道路・家屋・橋梁・浜地・下水道に関する事柄 は町奉行所附の与力中地方役四人及びその下役の同心八人で勤め、 川筋の取締は川奉行四人がつとめる。川奉行は一名川役又は川方 といつて実は地方役から兼任してゐる。さうして川奉行の中から 二名づゝ一年交代で川浚役を勤めた。  関東八州の川船を支配するものを川船奉行といふ。この職の出 来たのは或は江戸開府の時といひ、或は元和八年といひ、何分判 然しませんが、.古いことだけは確かです。但し享保六年作事方 棟梁鶴飛騨後に武左衛門がこれに任ぜられてから久しく鶴氏の世 襲となつた。勘定奉行の支配で、役高百五十俵、役扶持十人扶持、 別に手当五十両を賜はり、配下には手附及び手代若干名があつた。 役屋敷は本所石原町(御竹蔵の南大川端)に、船改番所は深川扇 橋浅草橋場町及び武州関宿の三ケ所にあつた。  川船奉行の主なる仕事は川般に極印を押すことゝ年貢を取立て ることゝである。元禄二年(一六八九)に極印を打替へた記事が あるから、それ以前に既に極印を打つたことが証拠立てられる。 当時の触書に、今度川船の極印を打替へるから、江戸并びに関東 筋の川船は、何船によらず当四月より七月中までに、深川の元番 所前の中洲に差出し、その旨川船奉行へ申立て、同人差図次第に 極印を受けよ、以前極印を受遅れた船も、此度は必ず出でゝ極印 を受けよ、在々にある川船は右四ケ月の中江戸へ運送の序次第に 出でよ、序なきものは右日数の内、その趣を川船奉行へ申断るべ しとあります。深川の番所の設廃は何時であつたか分りませんが、 元番所といへば本令発布以前既に廃止されたものだ。かやうに江 戸并びに在々の川船に対し、一方で極印を打つと同時に、一方で は所有主居住地の名主家守に命じ、委細を帳面に記して川船奉行 へ差出さしめ、船籍を明確ならしめた。  極印を打つのは船籍を確かめると共に年貢取立の便宜のためで す。舶の大小に応じ年貢が違ふから、極印に守・文・立・金・言 の五種がある。丁銭といつて百文を百文とする計算で、百五十文 乃至四百文までが守、四百五十文乃至七百文までが文、七百五十 文乃至一貫文までが立、一貫五十文以上が金、無年貢の場合には 言の極印を打つた。新規に船を造れば船大工から必ず役所に申告 する。極印が薄くなれば見える内に届出でゝ請直す。船を潰す時 は極印を切抜いて返上した。極印を打つ日は毎月二日・七日・十 一日・十六日・二十一日・二十六日の六回と定まつてゐます。

 


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