Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.3.4

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その7

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第一 市街の発展
  一 江 戸 (5)
管理人註

大名小路 慶長八年の 町割 江戸城の改 築

 開府以来諸大名の江戸に参覲するもの多く、幕府は彼等に対し、                          ダイミヤウコウヂ 外桜田の宅地を賜うた。大名屋敷が櫛比してゐる所から大名小路       といふ字さへ起つた。かく大名が江戸に邸宅を設け、御城附近に 住居するやうになると、これに伴つて町屋が発展して来るのは当 然の趨勢である。この慶長八年即ち江戸開府の年において江戸の                      ホンチヤウ 町割が行はれた。麹町(番町)及び常盤橋外(本町)の町割は既 に行はれてゐたが、此度は大規模の町割をしたので、結城秀康を 始めとし、合計七十名の諸侯に命じ、千石につき一人の人夫を差 出さしめ、駿河台(当時神田山といふ)を引崩し、豊島の洲崎を 埋立て、四方三十余町を得たとある。当時築立てた地域を何処か ら何処までと判然いふことは出来ないが、先づ日比谷の入江を埋 立て、西丸下及び日比谷から呉服橋までの曲輪を立てた。今西丸 下の曲輪の直角なると、数寄屋橋から呉服橋迄の曲輪の直線なる とを以て、是等が人工に成りしことを容易に暁り得やう。その他 の曲輪ほ皆天然の地形に従つて建てられたから、屈曲があつて不 規則である。それから曲輪外では、大略両国橋の手前から内神田 の辺、堀留川以東浜町一円、日本橋以南八丁堀一円(八丁堀につ いては慶長十七年説がある)、京橋以南芝口の辺までで、日本橋 京橋辺の溝渠は排水及び交通のため埋残されたり或は開鑿せられ                            コチヤウ たものであらう。当時開けた町数は凡そ三百町で、後世之を古町 といふ。古町の名主は将軍に拝謁が出来るといつて威張つたもの でした。日本橋の出来たのも同年です。以前は城の大手から真直 に通ずる道路即ち本町通が一番の大通であつたが、慶長八年以後 日本橋が江戸の中心となり、日本橋通が江戸市街の最大幹線とな つた。又日本橋を基点として各地への道程を測つて一里毎に塚を 築き、その上に大概榎の木を植ゑて施行者の標識とした。今瀧野 川区西ケ原の林学枚の側に立派にその遺址が残つてゐる。  江戸城の改築は慶長十一年から十二年へかけて行はれた。この 際本丸・二ノ丸・三ノ丸及び西丸はいふも更なり、内曲輪や土居 や濠までも立派に出来し、塁壁は皆石垣となり、濠は掘広められ、 五層の天主、二十基の櫓、所謂三百の大名、八万の旗本を登城せ しめても、一向差支のない程度に経営せられたのであつた。各大 名は城普請のために伊豆から大石を船で運んだ。船数三千艘、一 艘毎に百人持の石二個宛を入れ、一ケ月に二度づゝ江戸へ往返し たとある。数多い中には不幸にも暴風雨に遭つて沈没した石船が ある。城には落ちるといふことが禁物だから、一度落ちた石は再 び用ひない。釣魚師の方にネヅリといふ言葉がある、これは海底 に横はる石塊の間にゐる魚を釣ることで、それらの石塊は江戸城 の普請用の石が落ちたのだといふことです。

  


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