Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.8

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その60

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  二 川 筋 (8)
管理人註

川船奉行の 弁解 慶応三年の 改正

 この書面は川船役所へ廻され、鶴飛騨から下ケ札にて返答あり、 七月十八日越前守は名主共を召し、下ケ札披見の上、存寄もあら ば改めて申出づべく、下ケ札返答の趣にてはこの後権威ケ間敷事 もあるまじといつた。飛騨の回答は大略左の如くである。  (一)名主共正徳以前の旧習に泥み、御年貢には拘はらざるも     のと誤解せるより起る。「御年貢御役銀無滞上納為仕     可申候、為後日加判証文差出候、右之通吟味候処、相     違無御座候」との奥印文言に相違あれば改正を命じた。  (二)船持年貢延滞につき再三催促の節、家主罷出で、断りを     申出づれば猶予するも、家主不参なれば止むを得ず名主     を召喚する。  (三)手代にても申したか、向後相慎むやう申付ける。  (四)役所へは私罷出で、一々承届け、手代共へ申付ける。  (五)櫓櫂等を取上ぐるも皆納せず、例へば船十艘を所有し、     その中四五艘分を納め、その手形を残の五艘に流用す     る者あり。  (六)請書の義、請取とばかりにては差別なし。仍てその訳を     書入れしむ。  (七)延期の分に直ちに手形を渡せば、年中無手形にて乗廻る     も差支なく、年貢さへ持参せばよろしと怠納勝になる。  (八)留守中の代判鑑を届置かずに他国するから済まないので     ある。  (九)銀銭相場は年貢を上納する所へ張出してある。両替町駿     河町名主書上相場は十日間の平均であるから、町の相場     とは相違があるのであらう。御年貢丁銭何百文、此役銀     何十何匁と手形に書記す。銭何程と書入るゝことは多数     であるからその儀は出来ない。  (一〇)威光ケ間敷事は向後共相慎むやう申付けよう。  (一一)番所で乗人へ差図はしない。船頭が番所へ上り、改を     受くるとき冠物を取らしむ。  この返答に接して名主中再び出願せんといふものもあつたが、 温和説が勝を占めて町年寄の樽藤左衛門迄書面を差出すことゝし、 結局奉行の内意として名主共は年貢役銀の取立を引請けたもので はない、川船役所の方で権威ケ間敷儀は向後相止めるといふ証言 を得、十一月に至つて落着となりました。  その後元文二年(一七三六)銭相場高直の理由を以て、川船役 銀并びに負銀二口計五十一匁に三割半を増し、年貢一貫文の船か ら六十八匁八分五厘づゝ上納することゝなつた。  鶴氏は子孫その職を世襲したが、天明六年(一七八六)故あつ てその職を停められ、爾来この役は時々交替して世襲ではなくな つた。  慶応三年十二月船の形状・艫の数・戸障子その外勝手次第相用 ひ、役船は相止め、御年貢銀は来年より定額(四千余両)の二倍 を出せといふ事になつたが、間もなく幕府は瓦解してしまつた。  慶応三年の江戸船改高は船数千四百八十四艘、年貢丁銭千四百 七十四貫九百文、江戸廻船改高船数二 万一千二百八十一艘、年貢丁銭八千四百四十五貫四百文といふ数 字が存在する。

元文二年は
一七三

























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