Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その62

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第三 市内の交通
  二 川 筋 (10)
管理人註

大阪の川船 過書船 伏見船

 大阪の川船としては(一)上荷船(二)茶船が主である。上荷 船といひ、茶船といひ、名称こそ相違すれ、それは大小による相 違で、前者は二十石積加子二人乗、後者は十石積加子一人乗、働 は両方共同様で、海岸は兵庫・西ノ宮・神戸・谷川・岸和田・堺 へ出張して諸廻船を迎へ、川口から諸荷物を積んで市中浜々へ積 届ける。上荷船茶船の名を有するに至つたのは文禄中で、大阪が 町奉行支配となつてから極印を打ち、七村上荷船九百二十艘、中 船上荷船六百七十二艘、茶船千三十一艘に限り、役船といつて公 用には無代で使用した。延宝元年(一六七三)新船上荷船三百艘 同茶船二百艘を許し、元禄十二年(一六九九)更に堀江上荷船五 百艘を許した。堀江上荷船の中百艘が三十石船であることは特例 である。  上荷船茶船は市中川々に於ける荷物運送を独占してゐますから、 その報償として元禄以来運上銀を上納する。上荷船は銀六匁、茶 船は四匁ですが、堀江上荷船に限り、全体から金五百両を上納す る定です。  運賃は寛永四年の上荷船制札及びその後に出た添制札に規定せ られ、茶船の運賃はその半額といふことになつてゐる。それから 荷物を船に積むか、馬に附けるかについて、毎々紛議が起つてゐ ます。馬附荷物を禁ずれば伝馬所が疲弊するし、又際限なく許せ ば上荷船茶船仲間が困憊する。むづかしい問題でした。  (三)古剣先船 二百十一艘、新剣先船 百艘、在郷剣先船  七十八艘、これは大和川筋を干鰯・油粕・諸荷物を積んで働く船 で、京橋から下へは下らない。  (四)古大和川筋井路川船 百艘 働は在郷剣先船同前。  (五)古土船 二十六艘、新土船 二十四艘、在郷土船 十一 艘  (六)大石船 九艘、小石船 九艘  (七)砂船 百七十艘  (八)屋形船 百艘 これは遊山船で大小色々あり、大阪川内 川口は勿論、住吉・堺・尼ケ崎まで行きます。淀伏見へ行く時は       ウハマヘ 過書船仲間へ上前銀を出す。上前銀とは賃銀の一部を割く意味で す。  (九)勧進小船 三十艘 川口の碇泊船へ行く勧進人即ち銭の 寄附を勧める人を乗せる小船です。  (一〇)柏原船 七十艘 京橋から南河内の柏原村まで平野川 筋で働く船です。  以上は皆運上銀を上納するが、銀額は船の種額によつて相違が ある。船数の少い分は惣代、多い分は惣代の上に更に組頭があつ て支配してゐます。  自分用に使ふ通船には荷物を積むことは厳禁で、船数は一千艘 を越す年もあれば五六百艘の時もあり、小額の運上銀を納めます。  淀川筋を往来る過書船は古いもので、慶長八年に徳川家康から 過書仲間に与へた條々を見ると、伏見から大阪・伝法・尼ケ崎間 を上下し、一年二百枚の運上銀を納めよとあります。然るにこの 営業範囲を犯す淀上荷船といふものが出来たため、過書座から訴 訟を起し、これを過書座の支配に含むことゝして落着したが、享 保七年(一七二二)に至り、再び伏見船二百艘の許可となり、双 方相対峙することゝなりました。伏見船の運上銀は最初銀百枚、 別に伏見町へ銀五貫目を差出した所、その後段々変更があつて銀 七百枚となりました。徳川時代に於ける京都大阪間の交通は大部 分過書船伏見船によつたといつて差支ないであらう。

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