Я[大塩の乱 資料館]Я
2009.6.21

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「大塩の乱関係論文集」目次


『江戸と大阪』
その63

幸田成友著(1873〜1954)

冨山房 1942 増補版

◇禁転載◇


 第四 江戸大阪間の交通
  一 街 道 (1)
管理人註

五街道 東海道 中山道 慶長年間の 交通奨励

  第四 江戸大阪間の交通    一 街 道  江戸市内大阪市内の交通については大略説明しましたから、次 ぎには江戸と大阪との交通について申述べませう。  徳川時代において江戸を中心として分岐せる主要なる道路、換 言すれば江戸に集中せる交通幹線を五街道と称した。即ち東海道・ 中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中である。古くは日光・奥 州・甲州を道中といはずしてやはり街道といつた。街道に海道の 文字を用ひ、中山道を中仙道と書いた場合もある。一々異同を挙 げればその煩に堪へぬから略する。日本全国の交通の上からいへ ば、五街道の外尚若干の重要な道路があつたのであるが、幕府自 身の立場から江戸を中心とした。もう一つ精密にいへば、日本橋 を起点とした五條の大道路を五街道と定めただけである。里数は すべて日本橋を起点として計算された。  五街道の中で江戸と大阪とを繋ぐものは言はずと知れた東海道 と中山道とである。東海道は江戸京都間の幹線で、宿駅の数は品 川から数へて大津まで五十三宿ある。けれども延宝二年(一六七 四)伝馬宿拝借銭覚に、前記五十三宿の次ぎに京都大阪間の五宿、 伏見・橋本・淀・枚方・守口を載せてゐるから、これ等の宿駅は 東海道の延長と見倣されたものであらう。中山道は板橋から守山 まで六十七駅。守山の次ぎが草津で、そこで東海道と合してゐる。 江戸大阪間の陸上交通はこの二線によつたもので、東海道によれ ば百二十六里六町一間、中山道によれば百三十二里十町八間とな る。但し東海道中の熱田から桑名へ渡る七里は海路である。また 伏見大阪間は川船(三十石)で下るのが通例であつた。  慶長九年(一六〇四)八月、諸国の道路を作り、又一里塚を築 かしめた。当代記に「広さ五間也」といふ文句があるから、道幅 を五間と定めたものと見える。それから慶長十六年に江戸から品 川、江戸から板橋に至る人馬の賃銭を定めた高札を建て、翌十七 年十月道路・橋梁・堤等の修繕に関し左の通り令してゐる。          ・・・  一、大道小路共馬さくり候所には、砂にても石にてもかたまり    候様被仰付道の脇に水やり仕候様尤侯事。     附ぬかり侯所、右同前……  一、堤等の芝切はぎ候事、一切無用可成候。  一、橋之儀、大小によらず悪候はゞ、御料私領共に触下之間、    向後代官衆被入精候様堅可申渡事。     ・・・ とある。さくりは射芸に関する詞ださうです。土地が掘れてゐる 意味でせう。続いて幕府は御宿奉行といふものを設けた。それが 後の道中奉行に相当するものだといふ説がありますが如何でせう か。御宿奉行は大阪出征のために設けられた臨時の職名と考へら れる。これに反して道中奉行は定員二人、一人は大目付から、一 人は勘定奉行から兼任し、道路宿駅の事一切を掌る役で、万治二 年(一六五九)から引続いて任命されてゐます。

 


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