第四 江戸大阪間の交通
一 街 道
江戸市内大阪市内の交通については大略説明しましたから、次
ぎには江戸と大阪との交通について申述べませう。
徳川時代において江戸を中心として分岐せる主要なる道路、換
言すれば江戸に集中せる交通幹線を五街道と称した。即ち東海道・
中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中である。古くは日光・奥
州・甲州を道中といはずしてやはり街道といつた。街道に海道の
文字を用ひ、中山道を中仙道と書いた場合もある。一々異同を挙
げればその煩に堪へぬから略する。日本全国の交通の上からいへ
ば、五街道の外尚若干の重要な道路があつたのであるが、幕府自
身の立場から江戸を中心とした。もう一つ精密にいへば、日本橋
を起点とした五條の大道路を五街道と定めただけである。里数は
すべて日本橋を起点として計算された。
五街道の中で江戸と大阪とを繋ぐものは言はずと知れた東海道
と中山道とである。東海道は江戸京都間の幹線で、宿駅の数は品
川から数へて大津まで五十三宿ある。けれども延宝二年(一六七
四)伝馬宿拝借銭覚に、前記五十三宿の次ぎに京都大阪間の五宿、
伏見・橋本・淀・枚方・守口を載せてゐるから、これ等の宿駅は
東海道の延長と見倣されたものであらう。中山道は板橋から守山
まで六十七駅。守山の次ぎが草津で、そこで東海道と合してゐる。
江戸大阪間の陸上交通はこの二線によつたもので、東海道によれ
ば百二十六里六町一間、中山道によれば百三十二里十町八間とな
る。但し東海道中の熱田から桑名へ渡る七里は海路である。また
伏見大阪間は川船(三十石)で下るのが通例であつた。
慶長九年(一六〇四)八月、諸国の道路を作り、又一里塚を築
かしめた。当代記に「広さ五間也」といふ文句があるから、道幅
を五間と定めたものと見える。それから慶長十六年に江戸から品
川、江戸から板橋に至る人馬の賃銭を定めた高札を建て、翌十七
年十月道路・橋梁・堤等の修繕に関し左の通り令してゐる。
・・・
一、大道小路共馬さくり候所には、砂にても石にてもかたまり
候様被 仰付 道の脇に水やり仕候様尤侯事。
附ぬかり侯所、右同前……
一、堤等の芝切はぎ候事、一切無用可 被 成候。
一、橋之儀、大小によらず悪候はゞ、御料私領共に触下之間、
向後代官衆被入精候様堅可 被 申渡 事。
・・・
とある。さくりは射芸に関する詞ださうです。土地が掘れてゐる
意味でせう。続いて幕府は御宿奉行といふものを設けた。それが
後の道中奉行に相当するものだといふ説がありますが如何でせう
か。御宿奉行は大阪出征のために設けられた臨時の職名と考へら
れる。これに反して道中奉行は定員二人、一人は大目付から、一
人は勘定奉行から兼任し、道路宿駅の事一切を掌る役で、万治二
年(一六五九)から引続いて任命されてゐます。
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